2007年6月20日
The Human Conversation
気になっているフレーズに、the human conversation というものがあります。直訳すれば、文字通り「ヒトの会話」というだけで、何の変哲もないのですが、以下で見て行くとおり、そもそも教育は何のためにあるのか、なぜライティングが重要なのか、さらにはなぜ人は文学に関心を持つのかといったコンテクストで、そこでの鍵となる概念として出てきます。大学教育の効用としては「よき社会人」を作るためだという話を耳にしますが、この human conversation という視点からは、「よき個人」を作るという発想、そして、その延長線上には、民主主義社会を担うに足る「まともな人間」を育成するという発想を見いだすことができるようです。ますます気になります。
そこで、今回は、時折見聞きする human conversation がどういうものとして説かれているかをざっと見て、自分なりの考えをまとめておこうと思いました。このところ、単語の検定ばかりなので、たまにこういったコラムも目先が変わっていいのではないでしょうか。またテーマがテーマだけに、お前こそ自信過剰じゃないのかと訳のわからないご仁にからまれることもないでしょうし。
さて、どうも human conversation の元祖格は、Michael Oakeshott という政治哲学者のようですが、この人の立場からは、われわれ人間はこの human conversation の継承者と位置づけられるようです。Oakeshottは、そもそも人間が代々継承しているのは、人間とは何かという哲学的命題ないしは蓄積されてきた情報の総体といったものではなく、conversation なのだと切り出し、その conversation は、太古の森の中で誰からともなく始められて以来、何十世紀にもわたって、その姿や形が整えられてきたものだとしています。(We are the inheritors of a conversation “begun in the primeval forests and extended and made more articulate in the course of centuries.)
実は、もっと大事なこととして、 Oakeshott は、この human conversation と教育との関係を強調しており、human conversation は、公共の場で進められると共に、われわれの内面世界でも続いているのだとした上で、実は、教育は、この conversation をこなすための術が身につくようにし、また、話し手としての要件を満たせるようにしてくれる世界への先導者の役割を担っていると説いています。この先導者たる教育のおかげで、我々人間は、人が意見を表明している場面でそれと認識することができ、分をわきまえながら発言できるようになると共に、conversation への参加資格として要求される知的・道徳的感覚も備わってくるというのです。そして、結局は、言葉を含め人としての営みにつき、その存在意義やニュアンスを考えて行くとこの conversation に突き当たるとしています。( Education, properly speaking, is an initiation into the skill and partnership of this conversation in which we learn to recognize the voices, to distinguish the proper occasions of utterance, and in which we acquire the intellectual and moral habits appropriate to conversation. And it is this conversation which, in the end, gives place and character to every human activity and utterance.") いやはやディープではありませんか。こんにちのわれわれを規定しているもの、それが the human conversation に他ならないと言っているのですから。
しかも、こういった考え方は Oakeshott で終わっておらず、例えば、協調学習の推進者の1人として知られる Kenneth Bruffee という教育者は、オークショットが説く human conversation を個人としてどれだけこなすことができ、また、どういう話し相手を持てるのかといった要素が人々のものの考え方・見方の内容の豊かさ、分析の的確さ、社会的応用性の高さに結びつくと強調しています。つまり、Bruffee に言わせると、よりよくものごとを考えられるようにするための第一歩は、内容豊かな conversation に携わるための術を身につけ、かつ、共同体のメンバーに「ああ、こういうconversation は大事だよな」と評価してもらえるものを生み出す素地を提供する社会的文脈ないし社会のありようを築き、維持する術を身につけることなのです。他愛のない世間話や雑談のたぐいで時間をつぶしちゃイカン。その話をしたことで、話に参加していた人々が「きょうは、いい話を聴けた、参加できてよかった」という思いを抱けるような、そういうconversation に参加でき、かつ、そういう話にしばしば参加していけるような環境にみずからを置くよう心がけていくことで、頭がよくなると言っているようなものです。
これは実感としてよくわかります。実は昨日、大学関係のプロジェクトとして行われている不思議な集いに参加する機会があり、human conversation の醍醐味を再認識させられたばかりです。集いと言っても格別テーマがあるといったことではありません。年齢的には現役の学生から60代の人までと幅広く、また、日本人はもとより、アメリカ人、スイス人、トルコ人、韓国人がおり、そういった人たちが日本語と英語を混ぜながら自分たちの疑問を持ち出し、あるいは自分の考えを論じるだけです。昨日はたまたま私の知り合いで、ハーバードに留学していたこともある浄土宗のお坊さんをその集いに案内したという事情があったので、おのずと、そのお坊さんによる日本人の仏教観、死生観といった話になり、おおいに盛り上がりました。こういう席に参加し、他の方々の話をうかがい、あるいは意見交換の機会を得ると、えも言われぬ知的高揚感を味わえるわけで、頭がよくなったかどうかはわかりませんが、ともかく「ああ来てよかった」と思えるのです。
・・・ とここまで書いていて、まだきょうの授業の準備が終わっていないことに気づきました。続きは明日にしましょう。
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