2007年6月21日
(続)The Human Conversation
つづきです。
いずれにしろ、ネット上を見てまわると、the human conversation こそが教育の目標だよと説いている大学関係者が多いのは事実です。University of Central ArkansasのNorbert O. Schedlerという人は、そもそも教育は、the human conversation に参加できるだけの人間形成を目指しているものであり、少しでも制約を少なくし、人間的な生活ができるようにしようという民主主義に直結しているという視点から論じていますが、そこでの教育の位置づけがなかなか味わい深いものとなっています。いわく教育というのは人間社会における共通意識すなわち何をもって合理的とするのかという感覚、共通の伝統が何であるかの認識、人間どうしを引きつけ合う心理的共感を意識にのぼらせる先導役であり、その意味で、人が共有している世界の発見へと導き、人どうしの心理的共感の実像を見せることであるとも言え、したがって、文明社会の一員となるためには、公共の利益より私的利益を優先して私物化しようとし、主観的判断に頼ろうとし、そして、自己陶酔に陥りがちだという、もともと社会に蔓延している要素を克服する必要があるのだと言います。
この点、教育再生会議は「志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくること」に教育の目的を求めていますが、何をもって志ある国民とするのかは示されずじまいで、上のきっちりした論理の展開に比べて実に雑で、わが国の有識者というのは、この程度かとがっかりします。わが国の有識者と呼ばれる人たちは、どうも理詰めで人間とは何か、個々の人間と社会全体との関わりはどうあり、どうあるべきかといったことを追究するのが苦手のようです。
何であれ、Schedler に言わせると、人間社会を貫く共通の意識がどういうものかわかっていないようでは、the human conversation に参加できないのであり、そのためにこそ教育の力でわれわれ人間はその共通意識の理解と継承に努めているのです。言い換えれば、the human conversation への参加に向けての準備として教育が位置づけられています。しかも、ここでも、Schedler 一人がそう言っているわけではなく、他でも大学関係者が同じようなことを言っています。例えば、米コロラド大学のウェブページを見ると、the human conversation はライティングを習得すべき理由として挙げられており、そのライティングがなぜ重要かという問いに対しては、「ライティングにより、われわれは一層深く学び、一層明確にものごとを考えられるようになり、しっかりした裏づけのある自信をもって the human conversation に参加できるようになるとしています」(Writing enables us to learn deeply, to think clearly, and to join the human conversation with confidence and authority.)
なぜライティングないし作文が重要なのかについては、頭の中で点在しているわれわれの知識・経験がライティングという作業により線で結ばれ、その結果、それまでばらばらで独自の意味のなかった雑多なものがまとめられ、その人の人となりを形成する要素になるということが言われますが、このことと重ね合わせて考えると、その人となりがきちんとできていない人がthe human conversation という場に参加を図ろうとしても迷惑なだけですから、ライティングで頭を鍛えてから出直してこいというのはよくわかります。
しかも、頭を鍛えると言っても、沈思黙考の末、社会との関係が希薄な独善的体系が頭の中でできてもしょうがないわけで、「頭を鍛えるツールとしてのライティング」のあり方を考えるに当たっても、その社会的な意味合いを意識しておくことが求められます。そして、このような視点からは、Oakeshott のように、他とのやりとりである conversation がわれわれ一人一人の頭の中に場所を移して継続されているのが内面的思考だとするなら、ライティングはこのようにいったん人の頭の中に取り込まれた conversation が再び社会とのパイプを復活させるものと捉えられます。
このあたりをスタンフォード大学の研究所が発表している資料は、こう説明しています。The ability to write depends on one’s ability to talk through with oneself the issue that are written about. And one’s ability to talk with oneself derives largely from one’s ability to converse with other people in an immediate social situation. (ライティングの能力が優れているかは、テーマとして取り上げている問題につき、自分自身どこまで突き詰めた内面的会話を済ませているかにかかっており、その内面的会話がうまく行くか自体、日常的な社会生活の中で他の人々とどの程度会話ができるかということに大きく左右される)
ここでふと思ったのが日米の作文教育の違い。渡辺典子著『納得の構造 日米初等教育に見る思考表現のスタイル』(東洋館出版社 2004年)を読むとアメリカの作文教育では一定の様式に従って自分の考えを順序正しく展開しているかで評価されるのであり、したがって、自分が書くものの対社会性が評価のポイントであることがわかります。これに対して、日本の作文教育で評価されるのは同書によると「感性の豊かさ」です。
このことからもう一つ大事なことが浮かびあがってきます。言葉を通じてどう自分の考えを表現し、どう説得するのかを学ぶ教育はおのずと言葉の持つ力を意識することにもなり、事実、これを背景にアメリカ人の場合、ボキャブラリーの豊かさと、その豊かなボキャブラリーをもとにどの単語を選んでいるかで知識人としてのレベルが判定される傾向があります。
一方、わが国のような作文教育では、個々の単語にまで目が向けられることはなく、言葉の組み合わせ全体が醸し出す空気が評価の対象となるのではないでしょうか。現にこうした傾向はお役所の国語教育に対するスタンスにも現れており、文化庁文化部国語課が2006年に発表している資料を見ると、「言葉に対する意識の高揚」という項目では、「正しい日本語を使おうとする意識の高揚を図る」ことが強調されています。先日、慶應で行われたシンポジウムの席上、茨城大学の福田浩子先生が「正しい日本語を使おうとする意識」と「言語に対する意識」とは別物でしょうがと嘆かれていましたが、そのとおりです。
以前にも書いたおぼえがありますが、中国を経由してわが国に西洋の文物がいろいろと輸入されてきた歴史の中で、なぜか鍵の文化と弁論の文化は伝わらなかったとされています。これは弁論の文化にどっぷり浸かってきた人々を相手に交渉せざるを得ないわれわれ日本人にとり、おおきな痛手であり、少なくともこのことを意識しながら国語教育を論ずる必要があります。やはり言葉の持つ社会的意味合いを考えながら自分の言いたいことを組み立てる弁論というものに対するセンスがないと、論理的思考の道具としての言葉という発想は出てこず、言葉が豊かだイコール感性が豊かだという世界にとどまってしまうわけで、感性などという細やかなものなどわからない蛮族が攻め寄せてきた場合に話になりません。
話をもとに戻して、さきほど申し上げたのは、the human conversation につき、いわば自分の頭の中でシミュレーションをするのが内面的思考であり、その結果を自分の外に改めてぶつけるのがライティングなのだということです。となると、リーディングはどうなんだと思いたくなりますが、ここでもちゃんと the human conversation は出てきます。
ことはリーディング一般というより、文学の話ではありますが、Nicole Krauss という作家に言わせると、the human conversation にこそ文学の存在意義が求められるのです。彼女いわく「じゃあ、そもそも文学とは何かとをひとことで言えと言われたら、人間であることとは何ぞやをめぐって間断なく続いている conversation を指すというのが私の答えです。とすれば、文学作品を読むというのは、その conversation に参加することに他ならず、名作とされるものは、人々を否応なくこの human conversation に引きずり込む力を持っているがゆえにそう呼ばれるのです 」
これを自分なりに解釈すると、世に読書家とされている人は多いけれど、太古より続いている the human conversation についての問題意識があり、それに即した本をたくさん読むような人こそが本当の意味での読者家ということでしょう。そもそも制作している出版社自身、気楽に読み切れるものをという姿勢で出している新書を何冊も読んでいっぱしの読書家のように思い込んでいる人が多いことを考えると、なんだかなあという思いがしてきます。
いや、ことのついでに言えば、the human conversation への参加要件を満たす上で役立たない、くだらない書物を一冊読むつど、本来、もっと有用な情報を得て考えを深めることができたはずなのに、その機会を逸しているという意味では機会費用が拡大しているとも言えるのではないでしょうか。
以上、つらつらと the human conversation とは何ぞやということで書いてきましたが、自分なりにまとめをつけるとこう言えそうです。西洋の教養という制約はあるのかも知れませんが、ひとつの考え方として、人間はおのおの自分が住んでいる社会の根底にある「社会生活をしている人々に求められる人間らしさ」に対する理解を共有すべきであり、そのために人間は教育という社会制度を作り、また、個人の問題としてもライティングやリーディングを通じて、精神世界で、あるいは、それを対外的に表示する世界を通じて the human conversation の輪に入って行ける資質を磨くことが求められている、とこう言えるのではないでしょうか。悪く言えばつまらん西洋趣味とも言えますが、やはりギリシア・ローマ文化の流れを受け継いでいる西欧の知識人の共通の感覚として、こういうものが脈打っていることを知っておくことの意味は大きいと考えます。
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上記で述べられているhuman conversationですが、地域社会や共同体で共存していくことを主な狙いとしたcivic/public communicationから派生する流れの一つと捉えて差し支えないと思います。社会の一員として生きていくには、当然のことながら、所属する言語文化に対する深い洞察力や価値観を十分把握してなければなりません。それ故、学校などを通して教育を施すことが必要不可欠になります。
アメリカをはじめとする英語圏では、civic/public communicationに参加する意義として、K-12や大学などでの教育は非常に重要な位置づけとなっています。英語母国民の場合、地域社会で生活していくためには、中学や高校等でリーディングやライティング、かつスピーキングやディスカッションなどで論理的・分析的思考力を十分鍛えてなくてはいけません。そうでなければ、文字情報にilliterateになるだけでなく、幼稚な話し方や考え方のまま、世間体の立ち話くらいしか出来なくなってしまうからです。
一方、日本では、リーディングやライティンクは、学校で一通り行っているはいますが、解釈や文章全体が醸し出す美しさやひびきのみに囚われている傾向が依然として強く残っています。これは、日本人が社会の通念や常識に訴えることが強い反面、論理的思考や分析力が非常に弱いこととつながりがあるようです。日本語の新聞や雑誌やテレビ討論などでは、議論の進め方や分析力のまずさがよく目立つくらいですから、論理的思考力を重要視する英語の世界では、大方の日本人は余りにも多くの問題にぶち当たってもうボロボロでしょう。
基本的に日本語は、言葉の意味や論理性が不明確になりやすいhigh-context languageなのに対して英語は必要な文字情報の提供、論理性の明確さを重視するlow-context languageといわれています。故に、日本語と英語の違いは単に、語順や発音が違うという単純なレベルではなく、言葉の意味の広がりやニュアンス、論理性、及び言語文化の発想まで及ぶもので、rhetoricが完全に異なります。そのように言語の世界が全く異なるのですから、日本語的発想による英語をベースとして会話やディスカッションをいくらやったところで、しょせん焼け石に水、日本人にしか通用しません。(日本人のこういった特性を十分理解しているnativeなら、なんとかなりますが、英語圏ではかなり厳しいです。)それ故、日本人が外国人との英語でのコミュニケーションに積極的に参加できるようになるためには、双方の言語文化の持つrhetoricの違いを念頭に入れた上で、日頃から絶えず努力し続けていく必要があるのです。
[返信]
コメントありがとうございます。後段でおっしゃっていることとの関係では、Hindsという研究者が英語がdeductiveな言語だとすれば、日本語は "quasi-inductive" である点、中国語、韓国語、そしてタイ語と似ているなどと言っていますね。
- 海外留学者
- 2007年6月24日 08:12

>日本の作文教育で評価されるのは同書によると「感性の豊かさ」です。
たしかに。私自身の経験からいうと、日本の学校では、作文の仕方を体系的に教えていないと思います。ただ「書きなさい」と言われるだけでは、何をどう書いたらいいのかわからないですね。「感性」とやらがない子どもは、どうやって文を書く方法を学ぶのでしょう?
英語圏の学校では、目的に即して書く方法、文の構造、テクニックをもっと体系的に習い、それに即して作文しました。自分の考えを具体的に形にする方法をまず知るということが、書くことを容易にすると思います。
[返信]
同感です。思うに、和魂洋才よろしく和文で仲間向けに書くときはほのぼのとしたものを書く一方、英文で英語式のロジックに慣れている人たちに向けて書くときは先方の流儀に則って書くというのもありではないでしょうか。ただ、やはり仕事上のコミュニケーションとなると、英語式の方が便利だと感じます。