2007年9月30日
専門家の訳語はいかついし、よくわからんという話
言語の専門家はどうして、人をこわがらすような訳語をひねり出すんだろうと思うことがあります。例えば、あるコミュニケーションの教科書では、20世紀言語学の元祖と言えるフェルディナンド・ソシュールを説明するくだりで、「通時態」だの「共時態」といったすごい言葉が登場します。それぞれ(あとで説明する) diachronic と synchronic という形容詞の訳語です。さらには、いわゆる記号論がらみで、単語が表している概念を意味する signifed が「所記」と訳され、また、その単語の外部的表現形式すなわち発音のしかたあるいは文字ないしビジュアルな記号を指す signifier が「能記」だったりします。
今回は、なぜこういう難解な訳語が出てくるかを考えてみたいと思います。
ソシュールは、それまでの言語学がもっぱら言葉の時代による移り変わりに焦点を当てていたのに飽き足らず、時間軸上の動態を追う流儀を diachronic なアプローチとする一方で、言語学が目を向けるべきは、一定社会で現在、通用している英語、フランス語などの言語 (langue) と個々人がそれを使う場面である会話 (parole) のあり方であり、そのためには、静物画を描く要領で、特定時点における静止画を撮るようなアプローチを取るべきだと主張し、このようなアプローチを指して、synchronic と称しました。
なんだか不思議な響きがあるものの、英語の語彙にも取り込まれている普通の言葉であり、その証拠に、Merriam Webster's Collegiate Dictionary は、diachronic につき、of, relating to, or dealing with phenomena (as of language or culture) as they occur or change over a period of time と説明しています。言語や文化が一定期間にわたって変化を見せる様子の形容だということです。また、 synchronic については、concerned with events existing in a limited time period and ignoring historical antecedent としています。ある時点現在での出来事を、しかも歴史的な経緯を抜きにして捉えるときの形容だというのです。
ところで、ソシュールはいきなりこんな妙な専門用語を打ち出しているわけではありません。Course in General Linguistics では、けっこうやさしく説明しています。時間軸にそっての言語の変遷を追うアプローチを指して、歴史言語学じゃあ曖昧すぎるし、evolutionary linguistics(要するに言語発展論ということです) あたりで話を進めましょうと言う一方、これとの対比で言えば、ある時代に身を置いてそこでの言語の実際を(それまでの経緯を気にせず、あるがままに)捉えるアプローチを static linguistics (「静態的」言語学)とでも言いましょうかとイントロで言っておいてから、言語の静態的側面からアプローチするときは synchronic という言い方をし、発展段階のある側面を捉えて言うときは diachronic という言い方をしましょう、と話を進める上での約束事を決めています。
そして自分なりの言語に対する取り組み方ないし枠組みを説明するため、diachronic なことにかかずらっているようでは、アルプスのパノラマを描こうというときに、ジュラ山脈に連なるいくつもの山の頂から同時にそれを描こうという無理をすることになる、そもそもパノラマというのは一定地点からの視界を基準とせざるを得ないのだと強調しています。
そうとするなら、diachronic linguistics を訳すとすれば、「言語発展論」という意味だということを説明した上で、以下『ダイアクロニック言語学』と言う」とし、また、synchronic linguistics についても、言語の変遷を捨象した、一定時点での言語の実際を扱う言語学といった説明をし、「以下『シンクロニック言語学』と言う」で済ませた方が読者のためではないでしょうか。カタカナを使うだけじゃそもそも翻訳じゃないとお叱りを受けそうですが、外国語を自国語に置き換えるのが翻訳だとした場合、「通時言語学」と「共時言語学」じゃ誰にもわからない第三国語に置き換えているに等しいものがあるように感じます。
次に signified と signifier に対応する「能記」と「所記」も、こんな変な訳語を使わずに、「内容」と「形式」でも十分意味が通じます。もともとソシュールは、人の会話というものは、sound pattern (原文のフランス語は image acoustique)を媒介に意味内容 (concept) をやりとりしているのであり、その意味でそこで用いられている木だの馬だのといった単語は、木という文字を目にし、あるいは ki という音を耳にした場合、つまり「形式」に触れることで、それが「地中の根から生えている地表面の幹から枝が出ており、そこから葉が出ている植物」という概念つまりは「内容」に結びつく仕組みになっているのであり、そういった仕組みで出来ている内容と形式のセットを指して「記号」だと言っているだけです。
それなのに、どうして、ここで言う concept=signified が 「能記」となり、signifier=sound pattern が「所記」になってしまうのでしょう。この手の用語を訳す専門家自身が内容をよくわからないまま、おっかなびっくりもっともらしい漢語で置き換えるからだというのが私の見方です。ちゃんとソシュールの本を読んでいれば、同じことを随所でやさしく説明してくれているのですから、それをよく消化していれば、こんなトンチンカンな訳など出てくるはずがないと感じています。
ところで、どんな分野の研究者でもそうは変わらないと思いますが、やたらと外国の本を読んでおり、博識なのに、翻訳となると、なんだかなあという訳をつけてすましている人は多いものです。まさに論語読みの論語知らずで、はた迷惑な話です。これは翻訳を業とする人についても言えることで、もっともらしい訳にかぎって、実は訳している本人がよくわかっていなかったりします(以前に取り上げた誤訳だらけの映画「ウォールストリート」も同じ話です)。この点、生半可な知識人が大嫌いだったショーペンハウエルも、People who pass their lives in reading and acquire their wisdom from books are like those who learn about a country from travel descriptions: they can impart information about a great number of things, but at bottom they possess no connected, clear, thorough knowledge of what that country is like. と、同じようなこと言っています。つまり「もっぱら本を読むことに人生を費やし、本からばかり智慧を仕入れる人というのは、外国のことを知るのを旅行記で済ます人に似ている。実にたくさんのことを周りの人に教えてはくれるが、要するにその国がどういう国なのだという段になると、明快にして深く、かつ、体系だった知識でそれに答えることなどできやしない」のです。やたらと本を読んでいて知識がありゃいいというものではありません。
特に専門分野の文献や述語を訳出する必要のある研究者は、そこで使われている外国語に通じているのは当然のこととして、文献の言わんとしていることを十分消化してから訳を考える必要があるはずです。以前、金融や経済関係の翻訳書をずいぶんと読みましたが、日本語としてすっと読める本はなかったと覚えています。翻訳臭がするというのか、和文の向こう側に原英文が透けて見えるようなものまであり、辞書を引き引き、ただただ言葉を置き換えているだけの小心者だらけだと感じました。
ことのついでに有名作家による英語の作品の和訳について言うと、この種のものを店頭で何度か手に取ったことがありますが、だいたいがすべて「・・・だ。・・・だ。」で終わっており、買う気が失せます。あれでは考え抜いた上でのしゃれたセリフまわしが台無しです。
なんであれ、やたらと内外の文献を読んでいりゃいいというものではなく、翻訳を手がける人は、特に研究者は、日頃からものを考えるようにし、内容を消化できるだけの知的体力をつけておかねばなりませんよ、そうでないと生煮えの訳語で読者ないし自国の知的文化に迷惑をかけることになりますよ、という平凡な結論に落ち着くわけですが、こういう当たり前のことを敢えて言わなければならない点、わが国の翻訳文化がまだまだということなのでしょう。
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先ほど英語で投稿しましたが掲載させて頂けなかったようですので同じ内容を日本語で再投稿します。
●学術的論文やアカデミックな論文でwikipediaを根拠として引用することは普通はありません。
●と、の二つの違いを分かっていれば私がソシュールに興味がないと記述した真意をご理解頂けると思います。上記の二つの違いを分からずして「その分野で光ることなく一生を終えてしまう」などと人様(日向先生が好まれて使う言葉)に向かって不用意に烙印を押すべきではありません。
[返信]
英文の投稿は迷惑コメントとして処理されてしまうようで、しかも定期的に削除されます。探してみましたが、何しろ膨大な数なので見つけられませんでした。申し訳有りません。
落ち着いて読んでくださればわかりますが、先のコメントに「あの Wikipedia のレベルでさえも」と書いたぐらいですし、そもそもこれはブログであって、学術論文ではありません。
これも文章をよくお読みになればわかりますが、老婆心ながら申し添えているだけであり、老婆心と烙印を取り違えてらっしゃるようにお見受けしました。
コメントがだんだん本文から離れ、ご自分のコメントの話になってきているので、これ以上のコメントは控えていただければ幸いです。
- eichan
- 2007年10月 2日 03:28
上のコメントをしたものですが、間違えて匿名にしただけで、特に茨城に住んでるわけではありません。
[返信]
わざわざ恐れ入ります。あのカメハメハ日記の井上さんに読んでいただいているとは光栄です。
茨城と書いたのは、筆致が言語の専門家という感じだったので、たまたま何人かその方面の知り合いが住んでいる茨城県を思い出した程度のことです。
- 井上大輔
- 2007年10月 1日 22:37
どうもこんにちは。いつも楽しみに読ましてもらっています。
通時と共時ってそんなに用語として理解しにくいでしょうか?「時間を通じて」ってのと、「時間を共にして」って感じで、結構直感的に理解できると思うんですが。
後、能記と能記に関しては、記する能力のあるものと記された所ということで、singifiantとsignifieの意味自体はよく捉えてるかなと思います。ただ、これはおっしゃるとおりわかりにくいですね。signifiantのantが英語の-ing、signifieのeが英語の-edに当たるというと納得されやすいような気にします。
[返信]
「時間を通じて」ってのと、「時間を共にして」って感じで、と言われてみると、そうかという感じがしてきました。しかし、いきなり「共時態」をぶつけてくるのはどうかいう気持に変わりはありません。
記す能力のお話、はなから「しるす能力」などと思い至らなかったので、意味が通っているのは発見です。ありがとうございます。
なんにせよ、一読了解を妨げる訳語はやめてくれというのが本意です。
何だか、匿名子さんは、この方面の方のような気がしてきました。茨城県方面の方でしょうか。
- 匿名
- 2007年10月 1日 10:23
私は言語学を専門に今、学んでいますがソシュールは今までに直接、読んだことはありませんし、これからもおそらく読む必要はないと思います。狭義では貢献をした人なんでしょうが、私とは関心が異なります。
[返信]
コメントありがとうございます。ソシュールを読んだことがなく、これからも読む必要はないとおっしゃるような方は私からすると言語学を専門にしているなどと口にしてはいけない方です。あの Wikipedia のレベルでさえもが、「近代言語学の祖」としているぐらいですから、「教義では貢献をした人なんでしょう」という事実認識は当たっていません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ソシュール
どの学問の分野にも、その理論の是非は別として、また、本人の関心と関係なく、ともかく一度は読んでおかないといけない本はあるものです。特に外国人研究者はタコツボ的発想から抜けられない日本人の学者の多くと異なり、周辺分野の著名な本まで驚くぐらい読みこなしていますから、そういう人たちに伍して議論していく上でも自分の直接の関心領域以外の文献をどんどん読破していく必要があるかと思います。
何であれ、定評のある基本書をむやみに必要なしと排しているようでは、先行研究がいい加減な人という評価をされてしまい、その分野で光ることなく一生を終えてしまうのではないかと案じられます。
- eichan
- 2007年10月 1日 06:08

ソシュールは大学時に4年間幾度も読んでおりまして、今回とても懐かしい気分で、またとても興味深く記事を読ませていただきました。
私たちの研究室では、何度も出てくるキーワードは完全に、シニフィアン、シニフィエ、サンクロニック、ディアクロニック、と発音そのままを訳として読んでいました。ソシュールが論文中で「シニフィアン」という語を使うとき、その語が意味する背景を包括した日本語は存在し得ませんし、訳出する必要も無かったという事情からでしょうけれど。
このようなフランス語や英語、その他類似の言語における、その言語理解を基本下地とした上で、一単語に概念を詰め込むことのできる特徴的な言語を和訳する難しさの一つなのでしょうね。
英単語4つほどで簡潔に表現されている内容でも、それを日本語におこそうとするとどうしても、「~を…するために~~的に……すること」などと冗長になってしまいます。
「特に専門分野の文献や述語を訳出する必要のある研究者は、そこで使われている外国語に通じているのは当然のこととして、文献の言わんとしていることを十分消化してから訳を考える必要があるはずです。」
とお書きになっている点について、そのような研究者であればあるほど、「シニフィアン」とカタカナで訳に書きたくなるのではないのかな、と感じました。
しかしそれでは和訳の意味がない、何とか日本の言葉1語で対訳させたい、という時、一つの文字で複数の意味を表現できる「漢字」を用い新しい「熟語」を作って訳出する、という苦肉の策に出た結果なのでしょうが。
個人的に「通時」「共時」は良訳と感じますけれども。
長々と申し訳ありません。
大変考えさせられた素晴らしい記事をありがとうございます。
[返信]
ご専門の方なのでしょうか、「翻訳ことはじめ」的なコメントで、しかも、味わい深く、こちらこそお礼申します。
私自身は、本当はカタカナでいいと思う反面、特に原語がフランス語だと、シニフィアンというカタカナ語のごときは音的にフランス語のおもかげすらないようにも感じられ、抵抗があります。
こうして翻訳された言葉をいろいろと見ると、society を会社、bookkeeping を簿記と訳した明治の人たちは偉いと改めて思い知らされます。