2008年6月27日
美しい日本を語る英語
6月20日付朝日新聞の朝刊、「聞く」というタイトルのコラムがあり、多田富雄先生という方が、何をもって日本的な美とするかという問題に対して、四つの特徴があると答えられています。
大昔にガイド試験(今は「通訳案内士試験」と、何か道案内の専門家みたいな名称になっています)に受かり、ひところ、役所関係の外国人招待客の同行通訳をやっていたことがあるので、こういうものに触れると、すぐ「これを英語で言うとしたら」と考え始めてしまいます。
そこでことのついでに、コラムで取り上げられている四つの特徴を見ながら、英語でこの種のものを伝えるにはどう訳せばいいのかを考えてみました。
多田先生は、「美しい日本」のルーツを四つの要素に求めたいとした上で、自然崇拝、自然信仰という意味での「アニミズム」、事実を語らずとも、たった一言で世界を表現する俳句や和歌に見られる豊かな「象徴力」、日本人の心の優しさの根源である「あわれ」という美学、そして、様々な日本的要素を技術の世界で包み込む「匠の技」を挙げてらっしゃいますので、この順番で見ていくことにします。
★ 自然信仰、自然崇拝
アニミズムにつき多田先生は自然の中に無数の神を見つけ、敬う民族であるがゆえに、一神教が普及せず、そのおかげで宗教対立による戦争もなかったとしていますが、このアニミズム、英語圏の人に、そのまま "animism" などと言うと、私の感覚では、奇異な感じを与えてしまいます。と言うのも、animism と聞けば、無生物にまでも霊 (soul) があるかのように扱う、未開人の「精霊信仰」のようなものを思い浮かべるからです。
こういう感覚を伝えるのには、むしろ、Japan is a land of myriad deities.(日本は八百万の神々の国です)と説明した方が楽です。そして、Anything thought to have superior qualities is recognized as a deity. (特別なものを持っているとされるものは、みな「神」と認められます)と補足しておけば、キリスト教など唯一神を信仰の対象としている人は違いがぱっとわかるはずです。簡単に言ってしまえば、多神教の世界です。
この程度の「理論武装」をしておくだけでも、外国人と一緒に歩いているときに出会う「日本的な神」がらみのこと、例えば、ご神木に巻かれていたり、あるいは道祖神の所で見る白い紙でできたひらひらしたもの(紙垂=しで)を目にした際、That zigzag-shaped paper streamer indicates a sacred zone. (あのジグザグ状のひらひらした紙は聖域であることを示しています)と説明し、また、地鎮祭をやっている所を通りかかったりしたときは、It's a ritual to pay respects to the local deities. (地元の神様を奉る儀式です)と説明し、ふーんと感心してもらえるものです。
ところで、こういう、あらゆるものに神を見いだすわが国の神道は、何にでも精霊ないし霊 (soul) が宿っていると見るアニミズムそのものではないかと思われる方もいらっしゃるでしょうが、この点、G. B. Sansom は、Japan--A Short Cultural History の中で、神道流の世界観を説明して、There is no definite idea of a soul, much less an immortal soul. (永遠不滅の霊魂どころか、そもそも霊魂というほどの確たる概念自体存在しない)と言っています。その一方で、「神」とは何か一段とすぐれているものを言うのだと指摘して、何にでも霊が宿ると考える単純なアニミズムとの差を明確に示しています。
考えてみると、こういった日本流の宗教観は「超自然的、超人間的本質の存在を確信し、畏敬崇拝する」ことが宗教だとした最高裁判例にも色濃く反映されているような気がします。というのも、米最高裁による宗教の定義として有名な一節では、"a power or being to which all else is subordinate or upon which all else is ultimately dependent"(すべてのものがその下にあるか、それにすべて依拠しているような力または存在)としており、唯一絶対神を暗示するものごとの位階性ないし序列を見て取れるのに対して、わが国の最高裁判例からは、その種のヒエラルヒーは感じられないからです。
自分自身は幼児洗礼を受けたローマンカソリックですが、なぜか一神教になじめないでいます。人間は決して神になることはできず、しかも、アダムとイブの犯した罪に連座している関係で、自分とは無関係な罪まで負っているというはた迷惑なシナリオにしばられているせいで、神に赦され、救われる最後の審判の日を(死後も)ひたすら待つというつらい存在を強いられます。そんなのより、神も人もいっしょという一元的世界観が好きです。実際、明治神宮とか伊勢神宮などに行くと、やはり神と共存できる land of myriad deities の方がいいなと強く感じます。ただ、そうは言っても、子供の頃から転向するような人間は地獄に落ちると教え込まれているので、今日から神道だと方向転換するのもかなりの勇気がいるわけで、悩みます。
つづく
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Comments
お返事有難うございます。
2006年09月06日「達人への道は毎日4時間、10年間の長丁場」の中でご紹介いただいた George Sansom 先生のことですね。夢の中で An Audit of Internal Control Over Financial Reporting …とつぶやくような英文ばかり読んでいますので、たまには気分転換で日本史を英語で読んでみましょうか。貴重な情報有難うございます。
- kimura88
- 2008年6月27日 17:31
先生こんにちは。「ビジネス単語のミニテスト」シリーズでは一方ならぬお世話になっています。
当方の不勉強で、多田富雄先生がどんな方なのか存じ上げませんが、「自然の中に無数の神を見つけ、敬う民族であるがゆえに、一神教が普及せず」までは理解できるのですが、「そのおかげで宗教対立による戦争もなかった」というくだりには納得がいきません。
私の祖先の在所は、現在の木曽三川公園の辺りで、土地柄と東本願寺大谷派を信仰していることを考慮いたしますと、長島の一向一揆に参加して織田信長と一戦を交えた可能性も否定できません。信長は仏敵です。
それはさておき、古くは「物部氏(廃仏派)X蘇我氏(仏教擁護派)」から始まり、「寺門派×山門派(天台宗派内での抗争)」、「日蓮宗徒による山科本願寺焼き討ち」、「安土宗論(日蓮宗×浄土真宗)」などなど、400年ほど前までは「宗教対立」もそれによる「戦争」もあったことがうかがえます。
記事の本筋とは関係ありませんが、若者の日本史離れが気になっていた矢先でしたのでコメントさせていただきました。日本のことを知ると世界が見えてくる。そして、日本語を知ると英語への理解が深まる、というスタンスで毎日過ごしていますので、今回の多田先生の一行はどうしても見逃すことが出来なかったのです。
つづきを楽しみにしています。
[返信]
「そのおかげで宗教対立による戦争もなかった」というくだりは、何をもって宗教とし、また、どの程度の武力闘争をもって戦争と言うのかで解釈も違ってくることでしょう。したがって、kimura88さんの見方にも、なるほどそういう見方も当然できるなと思いました。
一方、「宗教対立による戦争」というのは、善意に解釈すれば、イスラム対カソリックとか、カソリックの新教対旧教の対立のような、何と言うのか、信条ないし世界観の問題ゆえに互いに一歩も退かず、その結果として内部社会の小競り合いの域を超え、相手方の非戦闘員を含め徹底的につぶそうとする激しい殺し合いを言っており、多田先生の理解としては、そこまですごいのは日本史上なかったと言いたかったのではないでしょうか。
実際、中世の異教徒どうしの戦争では、首を切り落とした敵将の遺体やら伝染病患者の遺体を相手の陣地に打ち込んだことが知られていますが、宗教がらみで、そこまでひどいことをしたという例は日本ではなかったように思います。
なんであれ、じっくり読んでくださり、ありがとうございます。
なお「日本のことを知ると世界が見えてくる。そして、日本語を知ると英語への理解が深まる、というスタンスで毎日過ご」されているkimura88さんのような方には、George Sansomの一連の日本史ものは、いわゆる教養英語を吸収するという意味でも、きっとおもしろいと思います。Barnes & Noble の Used & Out of print のセクションで買われれば、けっこう安く入手できます。
- kimura88
- 2008年6月27日 15:27

こんにちは。本題よりずれますが、コメントさせていただきます。
文中にある「カソリック」という言い方は、英語のcatholicの音をなんとか日本語(カタカナ発音)でだそうとしたために、日本人の間に広まっていったものでしょうか?(それなら「キャソリック」とでもなりそうなところですが・・・)
日本語では正式には「カトリック」と言うと思います。日本各地にあるカトリック教会で、みずからを「カソリック教会」呼んでいるところはないはずです。受洗者も、信仰心のあるなしにかかわらず、日本語ではたいてい「カトリック」と言われます。
余計なことかもしれませんが、何かというと「英語ではこう言うから・・・」と、日本語内の言い方さえも英語にふりまわされる(?)ことの多い(・・・この場合はラテン語発音を参照するのが妥当な気がします)傾向を見たような気がしたものですから・・・。失礼いたしました。
[返信]
ありがとうございます。自分ではそう書いたことすら意識していませんでした。強いて考えると、「カトリック」という響きが「カトリ線香」に似ているためか、何となく使わないような気がします。ちなみに、「カソリック」という言い方はそんなにいけないものかと改めて手元の国語辞典を何冊かひいてみたところ、「カトリックを見よ」と誘導されてしまうものの、見出し語としては載っていますから、これはこれで認知されているようです。