2008年8月13日
裁判員制度への疑問(続編):NYタイムズが見た裁判員制度の舞台裏
★ 学校教育から来る限界
わが国での会社の会議、あるいはプレゼンの席で次々と質問が出て、各自が根拠を挙げながら主張するという形の議論が交わされるのは例外です。大学の教室でも、みなさん何か質問はと水を向けても手を挙げる学生がいるのは3回に1回ぐらいで、へたをしたら毎回ゼロでしょう。そういうカルチャーの国なのです。
このあたりの「ものごとを筋道立てて論じるメンタリティーないしカルチャー」の違いを浮き彫りにしている本に、渡辺雅子著『納得の構造』(東洋館出版社)があります。この本に載っている話ですが、アメリカの大学でライティングの指導をしている教師に言わせると日本人学生は「なぜならば (because) という接続詞をあまり使わず、そのかわりに『それで、そして (and) という接続詞だけで文章をつないでゆく強い傾向がある』と言います。アリストテレス以来の rhetoric すなわち効果的なコミュニケーションの基本である、「自分がどう考えているかを述べてから理由を挙げる」というパターンがわかっていないからでしょう。さらに言えば、「朝ご飯食べた、学校に行った、算数を勉強した」という重文を連ねる幼稚な表現しかできず、従属節を組み込んだ複文による立体的な論述を展開するスキルも身につけていないのです。
また同書によれば、アメリカの小学校における作文は「提案・説得・論証を主な目的とする作文形式であるが、「主題提示」・「主題の証明」・「結論」の三部構造になっている。最初に作者の主張を述べ、そして次にその主張を裏付ける証拠を挙げ、例を述べて、最後に主張が正しいことを最初とは違う表現で繰り返すのである」。これはまさに上で触れたアリストテレス以来の2000年以上も続いているargumentの基本です。
事実、アメリカの場合、小学校レベルから State and prove.(考えを述べてから根拠を挙げよ)というアリストレス流弁論を会得させるため「裁判ごっこ」や「会議ごっこ」をやらせるのが一般のようであり、私自身も小学校6年のときに、南米エクアドルのアメリカンスクールで経験しました。(日本人という珍しさなのか、日本大使のお坊っちゃまに敬意を表してなのか、いつも裁判長や議長に指名されていました)
対する日本の小学校ではどうなっているかと言うと、生徒の作文に出てくる「どきどきしながらロープウェイに乗った」「みんなでつんだいちごは、ふつうとはちがう味がした」というくだりに波線を引いて、「○○さんのうれしい気持ちが伝わってきます」と教師が寸評を加えたりするのが主流で、作文全体の構造や論理展開を評するようなコメントは一切ないとのことです。これを指して、同書はわが国での作文教育のあり方を「共感と激励−−批判と採点の回避」と要約しています。
ものごとを論じるスキル、すなわち共通する知識をもとに、自分がどう考えているか、その理由は何かを挙げながら、議論をし、参加者にとり Before & After がある世界を創り出すスキルなど、批判と採点の回避が常態化している社会で育つはずもありません。そうであるのに、こういった責任ある市民としてのスキルが求められる、判決のための評議の場に批判と採点の回避が当たり前の学校教育を受けてきた人々が放り込まれるのです。結果は火を見るより明らかです。
★ 国民性から来る限界
以上のように筋道だった意見交換をする文化を持たない日本の風土に裁判員制度はなじまないというのが私の主張ですが、これを裏付けるニューヨークタイムズの記事がありましたので、紹介させてください。2008年7月16日付の Japan Learns Dreaded Task of Jury Duty という記事です。
記事はわが国の刑事司法にとり一大変革である裁判員制度 (jury-style system) を取り上げ、模擬裁判などを通じて、その準備を進めている司法関係者の様子を報じるものですが、冒頭から、こんな厳しい見方で始まっています。
But for it to work, the Japanese must first overcome some deep-rooted cultural obstacles: a reluctance to express opinions in public, to argue with one another and to question authority.(しかし、これ[来年から始まる裁判員制度]が機能するためには、日本人はまずはその文化に深く根ざしている障害を克服する必要がある。公の場で自分の意見を述べ、他の人と主張を戦わせ、権威に疑問を投げかけるのをためらう心情を克服しなければならないのだ)
果たせるかな、模擬裁判に集まった人たちに向かって裁判官が「被告人は悔い改めているだろうか」と質問が発せられたところ、14秒の沈黙が続き、たまりかねて裁判官が「みなさん、どう思われますか」と促しても、また9秒の沈黙が流れ、裁判官も「どなたかご意見は?」と再度促す様子が描かれています。だいたい10秒以上の沈黙で人は落ち着かない気持ちになると言いますから、いかに重苦しく、長い沈黙かが伝わってきます。
関係者もこういった事情はわかっているわけで、意識改革のキャンペーンを手伝っている地元の劇団が持ち出したのが、ヘンリー・フォンダ主演の映画で有名になった劇「12人の怒れる男」。きちんとした主張をぶつけあうカルチャーを知らない人にこの劇のモチーフがわかるようにも思えませんが、それはともかく、裁判劇を通じて一般人の認識を改めようとしている、当の劇団のリーダー自身、こんなコメントをしています。
“But, really, I wondered, can Japanese really express what they believe in,” she said. “Can they really express their opinions?”(「しかし、思うんですよ、はたして日本人は自分が考えていることを言えるのだろうか」と。「本当に自分の意見を言えるのだろうか」)
“To this day, we value harmony,” she said, and, referring to a haiku by Basho, Japan’s greatest poet, she added, “In Japan, to not speak is considered a virtue.”(「これまで私たち日本人は和をもって尊しとしてきました」と述べ、日本で最大の俳人、芭蕉の句を引き合いに、こう続けた。「日本では寡黙が美徳とされているのです」)
記事はこのあと、最高裁の担当者による制度改革の趣旨が規制緩和の流れを受け、かつ、創造的な力を育成し、日本を活性化させることになるというコメントを紹介する一方で、裁判官主導の制度になり、裁判員は体のいいお飾りに終わるとする批判派の見方をとりあげています。
そして最後にちょっとだけですが、こんな記述がありました。ますますやめといた方がいいんじゃないと感じたことです。
In Nagano, many jurors said they were at a loss as to what to do. Flanking the three judges who were sitting in the middle of the bench, some of the jurors seemed to mimic the judges in the language and tone they used in addressing the defendant. ([模擬裁判が行われた]長野では裁判員の多くがどうしたらいいのかわからないと言っていた。席のまんなかを占める3人の職業裁判官の両脇に並んだ裁判員の中には、被告人に話しかける際、言葉遣いや声の調子まで裁判官の真似をしているかのような人が見受けられた)
お上に弱い一般人が裁判ごっこよろしく、お上の猿真似をしているわけで、ヤクザ映画を見たあと肩をゆすりながら劇場から出てくるチンピラといっしょです。こういう人たちが裁く日がもうそこまで来ているのですから、がっかりします。
★ さいごに
裁判員制度を導入する理由として規制緩和の流れだとか、日本社会の活性化ということが挙がっているようですが、これは裁判員制度の導入によって期待される社会での効用ないし機能を言っているだけで、なぜ裁判員制度が必要なのかを説明する理由にはなっていません。
このように導入のメリットに説得力がないところに、口べたな国民を口べたでは済まない評議・評決の場に無理矢理参加させるのはどうかと思います。しかも、いくら悪人とは言え、1人の人間を長期間牢獄に閉じ込め、あるいは死刑にするという、覚悟を要する、厳しい(だからこそ、衆知による決定という正当化が必要な)決定に加わるのですから、一大事です。
こういう制度により国民が議論することの何たるかを知るのであり、これにより徐々にではあるが、国民性も変わるといった理由を挙げる専門家もいるようですが、それなら、人間の生命・自由がかかっている場ではなく、学校でやってくれと言いたくなります。
国民が直接参加する機会を制度化することで常識からかけ離れた裁判が行われるのを防げるという擁護論も耳にしますが、これだって、司法の独立を害さない範囲での外部評価で対処することもできる話であり、一般人の裁判への参加が不可欠という筋合いではありません。
国民を子供扱いして何も任せないのも問題ですが、逆に無理矢理慣れないことを強要するのもどうかと思います。「もちはもち屋」と言うぐらいですし、われわれ素人の関与は傍聴程度にとどめておくべきだというのが私の考えです。税金で育成した専門家に任せておけばいいことです。法曹資格を持つ人々は試験合格後2年間みっちり研修所でアリストテレス流コミュニケーションを叩き込まれているのですから、なおのことです。せっかく税金で「議論のプロ」を育成しておきながら、こうした制度の基盤を掘り崩すような施策に税金を投入するというのは理解に苦しみます。
ちょうど Ortega y Gasset の The Revolt of the Masses を少しずつ読んでいるところなのですが、ながらく人間社会は平均的な人間と特別な訓練等で平均以上のレベルに達した少数派で構成され、バランスが取れていたのに、大衆社会の到来で、今やその「大衆」は、むずかしいことは訓練を受けた特別な人々の任せておけばいいという伝統的感覚を失い、「コーヒーショップでの雑談から生まれた程度のアイディアを法律の強制力をもって人々に押しつける権利があると思い込んでいる」(The mass believes that it has the right to impose and to give force of law to notions born in the café.) と喝破しているくだりがあります。教育のせいで argue することを知らない国民に対して法律の力で裁判に参加することを義務づけるのは、まさに「コーヒーショップでの雑談から生まれた程度のアイディアを法律の強制力をもって人々に押しつけ」ているわけで、大衆社会ならではの愚行です。
追記:
裁判員の資質・能力を問題にしている論考があってもよさそうなものだとネットを探したところ、慶應義塾大学法学部の平良木登規男先生が司法制度改革推進本部(4年前に解散した内閣の諮問機関)に出された「裁判員選任の手続について」という意見書がありましたので、そのサワリの部分をご紹介します。太文字は私がつけたものです。
裁判員が裁判官と同じ評決権を持つ以上、裁判に積極的にかかわることができる資質が必要とされる。そうである以上何よりも裁判員の「質の確保」が重要になる。また、個別の事件に特有の負担(例えば、多数回の開廷を要する事件、死刑事件等)に耐えられる裁判員の確保につながる。そのためには、裁判員を、民事の調停手続における調停委員選任の方法と同じように、自薦・他薦を前提にすべきである(当初の裁判員の確保は、本人の希望を前提に、調停委員および司法委員等から選任することも考えられる)が、もっとも、当検討会が、審議会意見書の実現にあるということからすると、これに反する意見は差し控えなければならないので、そこで、意見書と平仄を合わせた上での提言ということになると、無作為抽出を前提に、しかるべき段階で選定委員会において裁判員を選定することが望ましいということになる。[後略]
常識に反するような判決が出るのを防ぎ、かつ、裁判がどういうものかを国民にわかってもらうという裁判員制度の目的、また、7割方の人が裁判員になんかなりたくないと言っている現実に照らし、合理的かつ明快な選定方法だと思います。とは言っても、反対派は誰も裁判員の資質などには関心がないわけで、蟷螂の斧とはこういうことを言うんだろうなと改めて無力感をおぼえます。
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いつもお世話になっております。このブログで得た知識をとりあえず使ってみる、というのが日課となってきました。まだまだ血肉化には程遠いですが、何とかがんばって生きたいと思っています。
さて、資質という話からはそれますが、私は、いわゆる重罪犯を裁判員制度の対象にするという、そのやり方も間違っているように思えます。まずはとっつきやすい身近な事件から、というものではないでしょうか?
日常生活からかけ離れた重大事件の裁判に、いきなり投げ込まれる一般人が気の毒というもの。資質もそうなら、いよいよまともな議論など期待できるはずもないと思うのです。
一方で、交通事故、交通違反といった身近な(とっつきやすい)事件であれば、一般人としてのそれなりに有益な意見は出てくるのではないかと思ったりもします。たとえば、危険運転の認定など、40キロ制限の道を60キロで走ることがどれほど責められるべきことなのか、といったことは、実際にその道を走っていたり、車に良く乗っている一般人の意見はとても貴重だと思います。
それにしても、そもそもそんなに常識からかけ離れた判決がしょっちゅう出ているとも思えず(ホントにそうなら、とっくに司法制度は崩壊しているでしょう。)、そうなると、裁判員制度導入については、どこに国民の意思があったのかと、とっても疑問です…。
各種調査結果は、このことを裏付けているにすぎないと思う今日この頃です。
ともかく、私は裁判所の存在価値は、裁判において当事者は知っているであろう真実をいかに認定するか、にかかっていると考えているので、これがキチンと担保されるようなものになることを祈るばかりです。これがなければ、誰も裁判所を信頼しなくなりますから。
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コメントありがとうございます。