2008年11月30日
ガラパゴス化する日本の英語教育
La dolce vitaさんのブログ「世界級ライフスタイルのつくり方」で『ガラパゴス化する日本の製造業』(宮崎智彦著、東洋経済新報社)という本が取り上げられていました。la dolce vitaさんの記事は、ご自身が電機業界ご出身ということで「日本の家電・電機製品市場はシーズンごとに新機能を搭載したハイエンド製品をこれでもか、これでもか、と送り出すオタッキーな市場。 ところが、世界は、機能は「そこそこ」でも安くて使い勝手のよい製品がよく売れる、というマスな市場」であると切り出し、ガラパゴス化の実際を紹介した上、最後は「企業・業界・社会全体のガラパゴス化は個人のガラパゴス化も意味します」と結んでらっしゃいます。
この「ガラパゴス化」、南米エクアドルの沖合にあるガラパゴス群島のように、独自の進化を遂げて他の世界(ここでは世界標準)からかけ離れてしまうという現象を指しているわけですが、その結果、日本の製造業は海外で存在感を示すことができずに終わっているのであり、へたをしたら未来がないという話です。
これを一読したところで、次の瞬間「これって日本の英語教育のことでもある」と気づきました。世界の英語教育の主流がコミュニカティブな英語に軸足を移しているのに、受験英語の影響で、今なお教科書の英語を読んで、訳させることを重視し、また文法も書き換えといった形式面の操作を覚えさせて事足れりとしている状況はガラパゴス化現象そのものです。
こうした日本のようなアプローチは海の向こうでは既に淘汰されています。外国語学習は、単語力や文法さえ身につければいいという時代から、外国語を学習するということは、その言葉のユーザーとなることであり、社会関係/対人関係を処理するツールを身につけることだという発想に立ち、コミュニケーションのためのプラスアルファを考える時代に移っているのです。単語や文法に加えて、状況に見合った言い方ができるか (rules of use/choice of words)、さらには筋の通ったまとまりのある話ができるか (rules of discourse) までもが問われるようになっています。あの中国のように、いかにも独自の基準で英語教育を進めそうな国でさえ、実は意外なことに世界標準によりながら、こうしたコミュニケーションを旨とする英語教育を進めているぐらいで、ケンブリッジ英検のキッズ版 (Young Learners English test) を全国規模で導入し、既に130万人が受けていると言います。いかに状況が大きく動いているかがわかろうというものです。
今から30年も前、1970年代のヨーロッパでは、外国語のテキストを読ませ、訳させることをもって外国語学習としていたアプローチからコミュニカティブなアプローチへという大きな転換が始まりました。外国語学習というのは、学業成績を判定するための道具ないし教養の問題ではなく、その外国語の「ユーザー」になって自己実現を図ろうという人を助けることなのであり、したがって学習内容もコミュニケーションができる言語運用能力を身につけさせるものであるべきだというコンセンサスが形成され、現在に至っているのです。(この政策転換の成果とも言うべき、新たな言語観ないし学習モデルの集大成がCEFRです)
アメリカも例外ではなく、各州での外国語教育のガイドラインと言える Standards for Foreign Language Learning in the 21st Century では、このガイドラインは、「学習者は何を知っておくべきか、あるいは、学習者は何ができなければならないのか」を示すためのものだとした上で、Communication, Culture, Connection, Comparison, Community の5つのCが大事であり、幼稚園から大学まで (K-16と呼ばれています)の教育において、常にこの5Cを心がけ、もって、外国語や外国文化に理解があり、かつ、コミュニケーション能力を備えた市民を育てるべきだと説いています。
一方、わが国はどうかと言えば、文科省が「英語が使える日本人」構想を2003年に打ち出しているものの、英語教員にTOEICで730以上を要求したことに表れているとおり、コミュニケーション能力がどういうものかがわかっていません(TOEICがコミュニケーション能力を測る試験とは言えないことについてはこちらの記事をどうぞ)。コミュニケーション能力に対する無理解がその後も続いているのは、今年の5月に発表された、教育再生懇談会の中間報告で、「わが国においても、国は、小学校から大学までの各段階における到達目標を、TOEIC、TOEFL、英検を活用するなどして明確に設定し、英語教育を強化する」としていることからも明らかです。到達目標を設けるのはいいとして、TOEICの制作業者みずからThe test is a norm-referenced proficiency test and was not designed as a measure of achievement. (このテストは集団規準準拠型テスト[注]であり、到達度を測るために制作されたものではない)と明言している性格のテストを持ち出すのはどうかしています(このことはこちらの記事でまとめてあります)。
[注 「集団規準準拠型テスト」は、運転免許試験や調理師免許試験のように一定水準以上のスキルがあるかを確かめるテストではなく、受験した仲間たちの中での順位を競うコンテスト型のテストを指します]
教育当局の英語教育に対する姿勢がこの程度のもので終わっているぐらいですから、当たり前と言えば当たり前ですが、わが国では今なお英語というのは知識の対象として捉えられており、コミュニケーションの道具という感覚が薄いと言わざるを得ません。口ではコミュニケーションと言いながら、実際にやっていることを見ると、知識の蓄積と再確認であるのが実情なのではないでしょうか。その証拠に大学入試では英語の知識の有無や多寡によって足切りをしていますし、社会人になってからも、コミュニケーション能力を測れるはずがない択一形式のTOEICに基づくスコアで英語力の高低が論じられています。
ここで、冒頭の「ガラパゴス化」ということに話を戻して今いちど日本の英語教育のどこが「ガラパゴス」なのかを考えてみたいと思います。
まず、ガラパゴス化とは何かを確かめると、野村総研のウェブサイトにある「ガラパゴス化」する日本という記事では、日本の「ガラパゴス化現象」を以下のように整理しています。
(1)高度なニーズに基づいた製品・サービスの市場が日本国内に存在する
(2 一方、海外では、日本国内とは異なる品質や機能要求水準の低い市場が存在する
(3)日本国内の市場が高い要求に基づいた独自の進化をとげている間に、海外では要求水準の低いレベルで事実上の標準的な仕様が決まり、拡大発展していく
(4)気がついた時には、日本は世界の動き(世界標準)から大きく取り残されている
これを一つずつわが国の英語事情と突き合わせていくと、そのまま当てはまるのに驚かされます。やはり日本の英語教育はガラパゴス化しているのです。
(1)高度なニーズに基づいた製品・サービスの市場が日本国内に存在する
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高度かは別としてともかくわが国独自の英語の世界として、TOEIC英語という世界のあることがこれに当たります。最高スコアをとっても、世界標準であるコミュニカティブ英語とは異なるため、通じない、話せないという例がいくらでもあるのに、世界的に通用するケンブリッジ英検やIELTSが知られていないこともあり、ジャパンローカルでしかないこのテストを毎年150万人もの人が受け、英語学習の目標としています。世界各地でのケンブリッジ英検の受験者がそのぐらいですから、すごい数字です。ちなみに日本の大学生の数が250万人ですから、それと比べてもいかにすごいかがわかります。
これに加えて、受験英語に代表される学校教育における英語は、最近でこそリスニングが試されるようになり、やや改善されましたが、基本的に英語の知識があるかを単語力と文法という視点からチェックするわけで、コミュニケーションのための英語という視点が欠落しています。
要するに世界標準であるコミュニカティブ英語とは異なる独特の英語が定着し、進化を続けているのであり、それを支えている語学ビジネスの市場規模などはおよそ8,000億円にもなります。マクドナルドの日本での売上を上回る数字です。
文科省が見識を持って、そんなことじゃ駄目だと(お隣中国のように)世界標準であるケンブリッジ英検の普及を後押しすればいいのに、逆に英語教員に一定以上のTOEICスコアを求めたり、学校教育の到達度判定指標として持ち出したりと、いわば公認しています。企業もしかり。大学も国公立を含め半数近い大学がTOEICスコアで単位を認定するありさま。わが国の英語がガラパゴス化するはずです。
(2 一方、海外では、日本国内とは異なる品質や機能要求水準の低い市場が存在する
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非英語圏の人々と英語で話をしたことのある人はわかるでしょうが、たいていの場合、こういう人たちのボキャブラリーや文法力は、平均的な大卒日本人よりは劣っています。特にペーパーテストでは圧勝することでしょう。しかし、実によくしゃべります。そして通じます。言ってみれば、英語を「マスターする」ことが、わが国では一つの「道」として観念されているのに、諸外国(非英語圏)の英語の使い手の場合、そういったものはなく、「足し算、引き算ができればいい、名人になる必要はない」という乗りで「テキトーな英語」で何が悪いという姿勢を見て取れます。敢えて言えば、わが国ではネイティブ信仰も手伝って、「正しい英語」「美しい英語」といった理念型が重視されるのに、国際的には「通じる英語」が主流で、そこではネイティブ並みの正しい英語と比較すると格落ちの、そして、要求水準も低いものがまかりとおっています。
問題はそういう「テキトーな英語」すなわちネイティブモデルにこだわらない世界標準の英語を話す人々が世界各地でビジネスチャンスを拾い、開拓し、あるいは多国籍企業の中で会話べたの日本人社員を尻目にどんどん出世していることです。相対的に日本人の国際競争力が低下を続けていると言えます。
他面、ガラパゴスというのは独自の進化を遂げた例として引き合いに出されますが、あの島は同時にこわい動物がいないため、よそでは生きていけない弱い動物でもゆうゆうと暮らせる側面があることでも知られています。そういう目で見ると、よそでは通じない英語を教え、学んでいる人々がおおぜいいる日本という国は本当にどこからどこまでもガラパゴスなんだと憂鬱になります。
(3)日本国内の市場が高い要求に基づいた独自の進化をとげている間に、海外では要求水準の低いレベルで事実上の標準的な仕様が決まり、拡大発展していく
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わが国では学校現場へのネイティブスピーカーの投入にこだわることに示されるとおり、ネイティブスピーカーの英語を最上位の到達目標とし、しかも文法・訳読を中心とする授業スタイルが主流を占めています。これに対して多言語学習が盛んなヨーロッパを見ると、第一に、欧州評議会が示している外国語学習モデルはネイティブ・モデルを捨てており、また、習得の程度に関しても、書ければいい、話せればいいといった部分的能力の習得を是認しています(その代わり一定の指標に基づいてどのスキルがどの程度に達しているかを確認することが奨励されています)。第二に、教材もコミュニカティブなアプローチが主流です。ところが悲しいかな、わが国の場合、学校現場ではコミュカティブ英語の担当はALT(ネイティブのアシスタント)に任せきりで、受験で問われないことから、おまけ的位置づけというのが相場で、その関係か、外国では売れるいい教材も、日本では売れません。
この点、先日、ピッツバーグ大の白井先生に対する返信ということで残してくださった神崎正哉先生のコメントが的を射ているので、改めて引用させていただきます。太字は私がつけました。
Michael McCarthy教授とCornell大学でご一緒でいらっしゃいましたか。私は11月初めのJALTの大会で彼のWorkshopに参加し、大変面白く有益な話を聞くことが出来ました。中でもSpoken fluencyに関する話は、興味深いものでした。彼曰く、会話は初めの発話以外、すべて相手が言ったことへの返答である、それでturn constructionが重要である、その際、まず相手の言ったことに反応してから自分の言いたいことを言うのが決まりになっている、会話を円滑に進めるのはjoint responsibilityである、turn takingがスムーズに出来ると会話が円滑に進み流暢に聞こえる、それにはsmall words(well, right, actuallyなど)とready-made chunksが有用で、それらに焦点を当てたturn takingの練習を学習者にさせるべきではということでした。彼はその考えに則り、Touch Stoneという英語学習のコースブックをCambridge University Pressから出していますが、どうも日本(および東アジア全域)では受けがよくないと言うことです。それはなぜかと言う話が小グループの質問セッションで上がったんですが、日本人は英語学習を単語と文法の習得として捉え、コミュニケーションを軽視しているからではないかという結論に達しました。ちなみにTouch Stoneは中南米では人気だそうです。
(4)気がついた時には、日本は世界の動き(世界標準)から大きく取り残されている
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わが国の英語教育が、英語を「使えるか」が決め手となるコミュニケーションではなく、英語を「知っているか」を問うスタイルを守っていることから、まさに「日本は世界の動きから大きく取り残されて」います。周知のとおり、日本人は諸外国で同じように英語教育を受けている人々に比べ、情けないぐらい英語を話すことができません。TOEICやTOEFLといったペーパーテストでも世界最下位レベルであるのは、結局、英語に対する認識ないしは英語観が間違っているからだと解されます。
しかも、自分たちの英語に対する認識が世界に通用しないことに気づいていないのですから、ますます困ります。というのは、英語力をビザの発給要件にするという英内務省の政策を受けて開かれた在英日本大使館でのセミナーで「IELTS以外の、例えばTOEIC等の試験でも良いのか」という質問をする人がいたりするのです。受験者のおよそ8割を日本人と韓国人が占めているような試験を世界標準と勘違いし、こういう席でTOEICはどうなんでしょうと質問をする人がいるのですから、悲しくなります。
同時通訳界の草分け的大御所に引き合わされた際、その方は吐き捨てるように、「日本の英語教育なんかに期待できない、まるで駄目だ」とおっしゃっていたのを思い出しますが、そうなのかも知れないなと改めて暗い気持ちに襲われます。その一方で、教育制度は駄目でも、この情報化時代、自助努力で正しい情報を集めて自分の学習モデルを構築し、それを実践する手もあるしなとの思いもあります。少数派なのかも知れませんが、自分としてはこういった方々を目一杯お手伝いしていき、草の根レベルからガラパゴス的制度を揺さぶり続けていくつもりです。
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- »鰤端末鉄野菜 Brittys Wake: [lang] すでにガラパゴスだった日本の英語教育 - 2008年12月 2日 03:51
日向清人のビジネス英語雑記帳:スペースアルク、ほとんど同感なのだけど(ヨーロッパ人はTOEICって知らないよね。みんなケンブリッジ英検受けてる)、ひとつ...
Comments
どうも、ご無沙汰しています。海外留学生です。冬休みに入り現在一時帰国中です。
私は、英語を知識として知っているというより、むしろ単に頭に詰め込んでいるだけという印象を持ちます。
日本の学校では、頭でわかっていても、実際の会話や英文ライティングで使えるようにきちんと訓練しないのですから、いくらnative崇拝主義を打ち出し、ALTを学校に大量に招いたところで、所詮無駄です。それもそのはず、日本の学校教育は、高校や大学受験を大義名分とした詰め込み型教育(dense-pack education)から未だに脱却できていないのですから。これも文部省や教育界に蔓延しているお役人的体質が根底として存在しているのが主な原因だと思います。
私は、英語を知識として知ることは決して間違いだとは断言しません。ただし、その場合、知識というのは文法・単語・語法などを頭で覚え、テスト(大学受験・TOEIC・TOEFL・英検)で高得点を取るというせせこましいものではなく、専門や一般常識など分野を問わず、英語を発信するための包括的な教養・素養と捉えます。つまり、各分野における背景的知識や人生経験や異文化的体験など全てを含めた、総合的な知識として積極的に吸収し、英語で発信できるようになるための手段として捉える(holisticかつpragmatic approach)という広範囲できわめて洗練されたものです。その点では、日本の学校で学ぶ知識も決して無駄ではないと思うのですが、いかんせんinstructionや目的を達成する方法(methodology)に根本的な問題がありますね。
[返信]
日本語で話す分にはそれを英語で聞いてもおかしくない大学生が多いことを考えると、学校教育のコンテンツの問題というより、英語教育における Why, What, How が基本的に間違っていると理解すべきもののようです。お役人がこういったものを考えるため、出発点からしておかしくなっているのでしょうね。海外留学生さんが早く帰国して、改革の先頭に立つ日が来ることを願ってやみません。
- 海外留学生
- 2008年12月20日 18:45
”要求水準の低い標準化仕様”は何も非英語圏の人々だけでなく、英語圏の人々でも当てはまります。これは、英語圏にいると以下で検証できます。
1.難しい単語や表現ではなく、平易な単語や表現での会話の構成。
2.流れるほどの流暢なスピーキングではなく、言い換えや繰り返しや強調を入れた朴訥とした(しかしリズムのある)言い回し。
3.Politeな英語だけではなく、“..gonna....”や ”...wanna...”の短縮形を使ったFrankな英語。
4.瞬時に何でも聞き取れるヒヤリング力ではなく、聞き返しながらのヒヤリング。
こういう紹介をすると、日本の”要求水準の高い”国にいる方々は、「これは主流ではなく、底辺層の人々の英語だ」と、言うかもしれませんが、アメリカの大統領候補達の討論会もこのレベルの英語を駆使しています。
又、「これはフランクなアメリカ英語であり、本場英国の英語ではない」との主張もあるかもしれませんが、英国首相のプレスカンファレンスの質疑を聞いたり、小説のスクリプト(せりふ)の部分を見ると(当方はアガサ クリスティを読んでいますが)アメリカほどではないかもしれませんが、これと同質です。
製造業においても、”低い標準仕様”の物はテキトーに作れば”低水準仕様”になるものでもなく、設計思想から変え、製法も再考しなければなりません。英語学習も、かなりの方向転換をしないと、ガラパゴス諸島に取り残されるでしょう。
[返信]
ごもっともです。わが国で「英語」というと独自のイメージで語られている感じですね。お嬢様の英語とか知識人の英語といった妙な本もありますし。英語圏であるかを問わず、人々が使う「普通の、何でもない英語」というものの影がうすいというのも不思議な現象です。
- いちろう
- 2008年12月 1日 12:02

こんにちは。午後の外気温が華氏1度!
ガラパゴス島の暑さのおこぼれに預かりたいような厳しい冬です。さて実質使える英語の話ですが、いろいろな訛りのある非英語圏の人々が集まって一緒に仕事をする国際的な場では、完璧ではなくとも一応実用に耐える英語を実際に使えることは大事だとおもいます。一方で、USのように英語を第1言語(English Onlyをきめた州もあります。)とするモノリンガルな環境では、サービスや物品を買うお客の立場でもきちんとした英語を話せないと、いろいろ損をします。お金を貰う側になればなおさらです。
教育があり、なおかつ育ちも良い米人は文法の正しいきちんとした英語を仕事仲間の間でも話すのが普通です。
現在の職場である製造業の本社事務所の例で言えば、役員はじめ、財務、人事、法務はもちろん、品質や製造部門も部長以上の米人は、休憩時間や会議の後の雑談でもwonna、gonnaを使いません。現場出身の製造部門の課長が現場で部下に話すときには使っていますが、そうした課長達も、部長報告の際はきちんと話します。
罵倒の表現同様、こうしたくだけた表現は聞いてわかる必要はありますが、英語を母国語としない人が積極的に使うことには反対の立場です。仲間意識を示すには役立つかもしれませんが、使う状況を誤ると、品と教養の無い人間だという印象を与えるのは確実です。(私の主張は以前にも別の記事へのコメントとして書いたように思います。重複お許しを)
実際の場面で使えない学問としての英語を極めるのはガラパゴス化、という論点には大いに賛成ですが、英語圏で仕事をする予定の日本人には美しい標準英語が使えるようになって欲しいです。
かろうじて仲間と意思疎通ができる程度の英語力の人が、wanna、gonnaを口頭で使うのには、勉強中だからしかたがないと思いましたが、仕事でかなり自由に英語を使う人が書面で使ったのをみて愕然としました。
立場や状況にあわせて英語の用語や表現を使い分けられるほどには英語を使いこなせていない例ですね。
1日も早くサヴァイヴァルから自由に使えるレベルまで、何ができるかを明確にした評価に基づいた英語学習が主流になることを願います。
[コメント]
本文で書いたのは、コミュニカティブ英語とは別世界に住んでいる日本の英語教育のリーダーたちやお役所のことですが、「立場や状況にあわせて英語の用語や表現を使い分けられる」という点は、コミュニカティブ英語を教える際のポイントで、話題は何かというfield、そこでの人間関係はどうかという tenor、そして書き言葉なのか話し言葉なのかという mode を組み合わせての register の問題として語られています。しかし、その域に達するのは100年かかるのかも知れませんし、あるいは分析的な思考を得意としない民族性(でもなあ、ノーベル賞も取れる民族ですよね)を考えると、ずっと駄目かも知れません。
話変わって、きちんとした人は話すときにディスコース・マーカー、つまり、Mm, Yeah以外に、On the contrary, In fact といった自分の発言の方向を示すラベルの使い方が実にうまく、特に、情報/意見交換といった定型的なやり取り以外のごく普通の会話でこの傾向が目立つと感じています。浦島さんのご経験ではいかがですか。