2010年2月 3日
大学生の英会話力
以下はオーストラリア人の大学教授による日本人大学生の会話の運び方に対する感想で、文法知識は自分のオーストラリア人学生のレベルを超えているというのに、会話能力に問題があり、つきあうのがしんどかったという内容のものです。まずはざっとお読みください。[出所は、Scott Thornuburyの How to Teach Speaking (Pearson Education Ltd) です]
学生たちと話すには辛抱を強いられます。相手の表情を読み取ろうにも、PCの画面上の変化を見ているようなものだからです。画面の裏では、最も適切な言葉を探しながらのセンテンス作りが進められており、次いで、センテンス案が文法上の間違いはないかとチェックされ、ようやく、言葉となって外に出て来ます。それに対して私が何か答えると、不安な表情を浮かべ、ときには、繰り返してくれと言われたりします。そのあとはと言うと、画面にしばらく何も映らなくなります。新たなセンテンス作りが進められている間はそうなるのです。どうも学生たちは間違いを冒すことに過度の恐怖心を持っているようですが、そんなことでは淀みなく話せるようにはなりません。他面、学生たちの英文法知識たるやオーストラリアの大学生をはるかに上回るもので、しかも語彙水準もきわめて高いのです。
英語であれ、日本語であれ、われわれは言いたいことをまず決めてから、それをどういう言葉で言うかを考え、最後にそれを言葉として外部に発する一方で、相手の応答を聞いている間、必要に応じて言い直したり、補足するなどの補修をするための経過観察を続けているものです。こうした一般的プロセスを念頭に置きながら、上のような状況につき、Scott Thornburyは、上に挙げた本の中で、こう説明しています。
These students are having trouble distributing their attentional capacity between planning and articulation, not to mention the added demand of coping with new input. Also, their anxiety is causing excessive self-monitoring: they are what the researcher Stephen Krashen termed monitor overusers. こうした学生たちは、ことに専念するに当たり、話の準備段階と表出段階の間でうまく力を案配できない上、新たなインプットによる負荷の増大への対処能力も欠いている。加えて、心配のあまり、過度のセルフモニタリングに陥ってもいる。研究者の Stephen Krashen が monitor overuser と名付けた学習者のタイプに属する人々である。
たしかに緊張しながら一生懸命英語を話している人の様子を思い出してみると、頭の中で必死に「作文」している間は、会話の相手は二の次という感じになり、表情もまさに心ここにあらずとなります。オーストラリア人の先生が「画面にしばらく何も映らなくなる」と形容したのもよくわかります。
Thornbury は、「ことに専念するに当たり、話の準備段階と表出段階の間でうまく力を案配できない」という分析をしていますが、もう一歩さかのぼって、どうして、うまく力を案配できないのかと言えば、それは英会話のイメージつまり、この所、再々取り上げているスキーマに対するイメージがないからだと思います。
もちろん、いまどきの学生で英会話がどんなものかまるでわからないという人は少ないと思いますが、それにしても日常的に使ってみるということがないので、けっこうイメージがおおざっぱです。例えば、ディベートやプレゼンは何とかこなせるけれど、普通の会話になるとセンテンスが出てこないといった言い方をする学生がいます。しかし、こういった学生は二つの点で、英会話のスキーマを誤解しています。
一つは、「センテンスが出てこない」という言い方に表れているとおり、会話がセンテンス単位で行われているという勘違いです。英語で話すときの「基本単位」はセンテンスではなく、センテンス未満のフレーズ、また、ときには Why? といった一単語です。
もう一つことのついでに言えば、仮にセンテンスを並べるようなときも、従属節を使うようなことは少ないですから、ただただ、並べていけば十分です。例えば、「効果を測定するのが難しいから、この計画で行くのはリスクが高い」といったことを言いたいとして、そこそこ英語ができる人は、because で始まる従属説を使って、
I think it's a risky bet because the effectiveness of this kind of project is hard to measure.
といった主節+従属節から成るフルセンテンスを作ろうとし、その間、妙な沈黙が流れたりもします。
しかし、会話の場合は、従属節を使った凝った作りを考えている余裕などありませんから、
It's risky, isn't it? This kind of project, um, it's hard to measure its effectiveness.
といった感じで、立体的な構造のセンテンスなど作らず、いわば平屋を並べていく感じで言うのが普通です。
また眼力のある方はお気づきでしょうが、書き言葉の世界では、主語 → 述語動詞 → (必要に応じて)目的語、というふうに作って行きますが、話し言葉では、[予備の先行スポット] → [本体:言いたいこと] → [予備の後付けスポット]という作りになっているので、書き言葉なら、
This kind of project [主語] is [述語動詞]hard to measure its effectiveness.
という格好となるものを、
This kind of project[先行のスポットにテーマを入れる], um, it's hard to measure its effectiveness[本体].
とやってもいいし、
It's hard to measure its effectiveness[本体], I mean, this kind of project [後付けスポットを利用].
という言い方をすることもできます。
もう一つの誤解は、スピーキングの場合もライティングのときと同様、頭の中での準備というステップがあるという認識です。つまり基礎英語力のある人が見落としているのは、ディベートやプレゼンと違って、普通の会話の場合は、そもそも言うことを予め用意しておき、言う順番も決めておくといった準備などしている余裕がないはずなのに、プレゼンなどでの感覚から、強引に頭の中で準備を始めてしまうのです。この結果、相手を無視する結果を招いてでも準備を強行するわけで、会話におけるインターラクティブ性、つまり相手を放っておいたりせず、互いに協力しあいながら会話を進めるという本質に反してしまいます。
いずれにせよ、ぶっつけ本番で始まり、しかもいったん始まったら相手との共同作業を次々とこなさなければなりませんから、会話では、いちいちフルセンテンスを作る余裕なんか普通はないのです。ネイティブだって大変なんですから、ノンネイティブとなればなおさらです。
普通に英語を話す人がどうしているかと言うと、さきほど説明した、センテンス未満のフレーズを次々並べて行くわけですが、こういった場合に時間の節約になるものとして重宝されるのが、I was wondering if you could といった定型的な固まりです。また、ネイティブといえども、いくらでも最初から言い直したりしますし、言いたいことを組み立てている間も、Um, Oh, Ah などと音を出しながら、相手に「ちょっと待ってね」と合図を送ります。また、Would you like to have some wine? をはしょって、Some wine, perhaps? と言ったりするのも、リアルタイムで進む会話に対処するためのスキルの一つです。
大学の英語教育はやはり書き言葉が「正統」で、話し言葉は「異端」という感じが強いため、難しい本は読めるのに、簡単な会話ひとつこなせない学生がいくらでもいるわけですが、ここで説明したような話し言葉のスキーマを知らないことには、英語でのコミュニケーションなぞ夢のまた夢でしかありません。
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間違いを恐れないという点では伝統的なメンタリティーとは違うカテゴリに入る私ですが、間違いから学ぶということには非常に賛成です。
今まで二回ほど英語の先生・教授等の発言のおかしさ(聞き手の反応がおかしい)に気づき、英語の母語話者の人にそれを確認したところ、文法間違いや失礼な発言だったということが発覚した事があります。別に揚げ足をとっているわけではありません。ただ、そういった方々がどんどん話して、どんどん間違えていただけると学習者としても同じ間違えは犯しにくいし、記憶にも良いので、英語の先生が母語話者とどんどん対話していくのを学習者に見せるのは非常によいことだと思っています。ただ、間違えるだけではなく、アフターフォローも必要だと思いますが。
[返信]
一般論ですが、英語を教える立場の人は、英語という知識の体系を独占しており、それを学生に伝授するという姿勢を取っているのが普通ですし、英語をスキルとしてではなく、知識として捉えているので、「練習」ということなどしません。しかも、いわゆる口語英語を見下し、そんなものはできなくてもいいぐらいに思っているような人までいます。ましてや自分の英語が水準に達しているかを確かめるためにケンブリッジ英検のような技能判定型のテストを受けたりする人などは少数派です。
ですから、英語の先生に間違えをおそれずにを英語を使っている場面を見せてもらうといったことは望み薄だと思います。
- ともちゃん
- 2010年2月 6日 10:44
オーストラリアで語学学校の先生が言ってました
日本人は、間違えたらまるで私たちが怒鳴るとでもおもってるのかしら?皆間違えたらソーリーソーリーってすごく謝るし・・・って。
確かに、本当に間違えてはいけないっていう認識があるような気がします。恥ずかしさ、というか。
でも不思議なことに、間違えれば、恥をかけばかくほど覚えますよね。間違えてナンボ!と思って取り組むと、上達もだいぶ早くなると思います。
[返信]
こんにちは。
間違いが「罪」と意識されるのは、日本の教育がどうしても先生中心で、先生から伝授されるものを「受け止め損なった」「ごめんなさい」と感じられるからではないでしょうか。おっしゃるとおり、learner-centered という発想に立って、間違えるからこそ前進できるんだと捉えればいいとは思うのですが、やはり長年の訓練で作り上げられてしまったメンタリティーというのは簡単には変えられないのでしょう。
- Yoko@TOEIC満点オンライン講師
- 2010年2月 5日 14:41
冒頭の引用箇所を読んで私が妙に納得したのは「どうも学生たちは間違いを冒すことに過度の恐怖心を持っている」のくだりです。私も含めた日本人全般における英会話習得の第一の障害は、このメンタリティーにあると思います。語学学習においてここまで間違いを恐れる国民は、全世界を探しても他にいないのではないでしょうか。
典型的な例としてよく聞く話が中国人との比較です。日本人が中国で日本語会話を教える時、ロールプレイ練習の相手役を募ると、生徒達は皆こぞって手を挙げるそうです。逆にその先生が日本に帰って中国語会話を教える段になると、日本人学生はうつむいて誰も挙手をしない。
ある意味日本人は「会話のスキーマ」を乱すことを非常に恐れているのだと思います。間違いを気にしないような神経の太い日本人が、逆にスキーマなどお構いなしの自己流英会話に走る、というシーンも想像できます。
まず教師が教えなければならないのは、"Learn from your mistakes. It's OK to make them." という考え方だと思います。
[返信]
おっしゃるとおりで、間違いをおそれる感覚は文法訳読法と呼ばれる流儀の遺産だと思います。コミュニカティブな言語運用を強調する世界では、間違いは、目標に向って進んでいることの証拠とされるからです。
他面、積極的に言葉を使って、通じる喜びに浸ってばかりいると、今度は「これでいいや」とそれ以上に進む必要性を感じなくなり、進歩が止まってしまう人もいるわけで、実際、「神経の太い日本人が、逆にスキーマなどお構いなしの自己流英会話に走る」人を商社関係を中心によく見ます。
きちんと目標を立てて、それに向って間違いを繰り返しながら進んで行く根性がなにより大事なのではないでしょうか。
- SK
- 2010年2月 5日 09:12
もう少し日吉が近ければ先生の授業を受けたい、と思いながら雑記帳を日々楽しみにしておる30歳です。
私は「センテンスが出てこない」ってことはないんですが、これは間違ってるんじゃないか、汚い表現だなあ、でも相手になんとなく伝わっているみたいだから、まあいいか、のまま何の成長もしていない状態です。
大学を出て7年。アメリカ語学留学1年+現在の証券会社でアジア人と英語で仕事を3年ほど経験し、いま自分がまともな英語を話しているのか話していないのか、さっぱり分からなくなりました。
WordEngineの単語力測定をしても、カバレッジ95%(10,000語超)、TOEIC930点なのに、TOEFL93点、GMATのVerbalは25点(下位35%)です。
今日も日本とアジアの製薬企業の面談があり、両サイドの逐次通訳をしました。「画面にしばらく何も映らなくなる」など許されず、2時間びっしりマシンガンの如く訳しつづけましたが、プロの通訳の方が聞いたら気絶するような品質だったと思います。
面談終了後に、今日も汚い英語を話してしまったとうなだれているなか、お客さまから「英語上手ですね」などと言われるので、余計落ち込みます。
文法知識はそこそこあり、単語もそこそこ知ってて、更に間違いを恐れずしゃべる勇気もあるのですが、いったい自分はどうしたらいいんでしょうか。
[返信]
GMATのverbalは書き言葉ベースなので、こと普通に話すという視点からはあまり気にしなくてもいいと思います。TOEFLはネット経由のiBTの数字でしょうが、94は昔のペーパー版で言えば600弱ですから、TOEICのスコアとも釣り合いが取れています。
http://allabout.co.jp/study/toeic/closeup/CU20040710A/
同じようなケースで、ある大手製菓会社の国際部の方は、つきあう相手がアジアの取引先からヨーロッパに変わった途端、自分の英語が通じてはいるけれど,先方の英語が自分のとは違うことに気づき、「標準語」を求めて、私が担当している三田(日吉では授業を持っていません)の慶應義塾外国語学校の授業を受けるようになり、「そうだったのか」と喜んでいました。使っている教科書は『即戦力がつくビジネス英会話』ですので、これで復習してみるのも手ではないでしょうか。あとは、Oxford の Express Seriesがお勧めです。English for Meetings といった分野別になっており、そこで頻出する言い回しがまとめられているので便利です。
なお、三田のクラスは火曜、木曜の週二回で、そのうちの木曜を私が担当しています。昨年の秋学期は24名でスタートして、期末テストを20名が受けましたから、退屈しないんだと思います。飲み会が多くて楽しいということもありそうですが。
- yuskay
- 2010年2月 3日 22:48

多分、『かっこわるい/ださい』人になってしまわないかどうかを心配するのが日本人英語学習者なのではないでしょうか?
なりふり構わずも、語学を習得してしまえという覚悟がなく、スマートに語学を習得したいと思っていて、ベタなアクセントやブロークンな話し方などの恰好が悪いのをよく自覚していて、自意識の殻を破れないのではないでしょうか?(必死にならなって英語を習得しないと生活ができなくなってしまうような必要性もない)
それには、逆も言えると思うんです。
きっと日本人は、日本語を話すnon-native speakersに、割と冷たいのではないでしょうか? アクセントが違う、言い回しが違うといって、滑稽だと思って笑ったり、見下したり、信用して物事を任せられないと思ったり。また、単刀直入に日本語で話しがうまくできずに悪戦苦闘している学習段階にある人達との会話に辛抱強くつき合わない等のきらいががあるのではないでしょうか?だから自分が、相手を待たせなければ会話ができないような立場になったときに、自らをいたたまれなく思ってしまう(コンプレックス)。
私は、外国語アクセント(私の場合は日本語アクセント)のある自らの英語が、時には、チャーミングでもあること、耳障りどころか、聞いていて心地よいと思われることもあることを経験から知りました。
これからも少しでも正しく英語を発音できるように意識していきたいと思っていますが、
一番薄気味悪いのは、会話が何で中断されたのか、黙って何を考えているのか、無視をしているのか、聞こえなかったのか、考えているのか、何なのかわからないという状態に相手を放置することです。
分からないのなら、絶対に薄笑いなど浮かべないで、わからないと言ってしまった方がお互いのためだと思います。
[返信]
おっしゃるとおり、「薄笑い」、いやですよね。
コメントを読ませて改めて思ったのは、学習者たちは、古い時代の教育法をひきずっている教師たちのせいもあって、間違えることが悪だみたいな感覚もあるのではないでしょうか。だから、照れ隠しをしたりもするのでしょう。