2010年2月 5日
ネイティブ教師の言い分、学生の言い分:スキーマの違いによる行き違い
大学で英語の授業を担当している先生たちはネイティブであれ、ノンネイティブであれ、学生たちが質問にすぐ答えてくれるといった積極的な授業参加を期待しているのに、無反応であることが多く、教師を嘆かせます。他面、学生には学生の言い分があるわけで、たいした問題ではないと受け止められています。
この問題は、学生たちが日本語のというか、自分たちの日本語で話しているときの流儀をそのまま英語の世界に持ち込んでいるのに、教師たちがそのことを見落として、あれこれとぼやいているように思えます。
そもそもここでの学生と教師のような会話の当事者は、それぞれが自分の知識や経験に基づいた枠組みを持っており、相対する相手とのやり取りも、こうした枠組みに即して「そうか、そういうことなのか」と目の前で起きていることを解釈するためのよりどころを得ます。そこで、当然、教室で質問されたら率先して手を挙げて答えようとするのが普通だという経験をしてきた人間と、なまじっか積極的に質問したり、意見を言ったが為に、仲間から浮いてしまった経験がある人間とでは、当然、共通の認識に立てませんから、関係がぎくしゃくしてしまいます。
このあたりの温度差を、社会言語学者の John Gumperz が Discourse Strategies という本の中で、折々取り上げています。Discourse strategies というのは、人が相手と合わせながらやり取りをし、会話を進めていく際に取るやり方のことですが、Gumperz は、まずは、会話への参加が成り立ち、維持されるためには、どのような言語知識ならびに社会文化知識が共有されねばならないのかを見きわめる必要があると説いています。同種の社会・文化的な背景事情の中で生活して来た人々は、その産物である枠組み、つまり「物事を、特にそれまで経験していない物事を理解するためのよりどころとなるもの」をも共有し、それに即して言語を使っての生活しているのである以上、人々の言動を理解する上でもそのことに注意すべきだというのです。
Gumperz がこのことを実証する上で示している例のうち、一番おもしろいのがイギリスの空港の職員食堂で起きた文化摩擦の例である「グレービー事件」です。当事者はいずれも普通に英語を話す人々だということなのですが、それはともかく、食堂で新たに雇われたインド人やパキスタン人のオバサンたちが上司の目には、態度が悪いとか、非協力的だと感じられ、また食堂利用者の評判もさんざんということで問題になりました。そこで調べてみると、肉料理を注文した客にグレービー(肉汁)をかけますかと尋ねるときの言い方が、語尾を下げるイントネーションだったための摩擦とわかります。言っている本人たちに取っては,インド/パキスタン英語で質問するときの抑揚として当たり前で、他意などないのに、イギリス英語で育ってきた方、つまり言われた方にしてみれば、質問のときは語尾の抑揚を上げるのが当然というスキーマをよりどころにしていますから、こういった場合に語尾を下げられては、断定的なもの言いに聞こえるのです。「ああ、グレービーかけるんだろ、これだよ」みたいに響くわけで、おおいに気分を害する結果となります。
これを受けて、コンサルタントたちはオバサン相手に、状況に応じて本来Aと解釈すべきものでも、Bと解釈されてしまうよとワークショップを通じてアピールし、改善を図りました。この結果、オバサンたちも前々から何か誤解されているなと薄々感じていただけに、言い方を改め,問題が解決されたそうです。
会話の中でのやり取りを当事者がそれぞれどう受け止めるかは、各自が起きている出来事を解釈したり、次のステップを想定するためのよりどころとなっている、スキーマによりけりだといういい例です。
冒頭のネイティブの英語教師と日本人学生の例も、こうした解釈の枠組みが違っているがゆえの行き違いと言えそうです。
と言うのも、日本人学生(30名)と英語教師の双方を対象としたアンケート調査(古徳聖子、永井彩子、「相互理解を目指す日本の英語教育」(筑波学院大学紀要第1集 139-150頁))を見ると、「なぜ日本人学生は授業中静かで、質問をしないのか」という質問項目に対して、学生の多くが「こんな質問をしたら笑われるのでないかと思う」と答えているのに対して、教師サイドはその理由として文化的理由なんだろうなという程度の理解で終わっています。
また、「なぜ日本人学生は自分の意見を言わないのか」という項目も、学生の方が「恥ずかしい、周囲の目が気になる」といった理由を挙げているのに、教師の方は、これまた「文化的理由じゃないの」というスタンスです。
さらに「なぜ学生は質問に対する答えが短いのか」という質問に対しては、学生は「簡潔に述べた方がいいから」「ながながと話すと自慢や言い訳に聞こえる」と説明しているのに対して、教師は「英語が話せないから」だと解釈しています。なぜこうネイティブがこういう解釈をするかと言うと、英語で話す場合は、互いに協力して共同作業を進めるのが当たり前であり、そこでは、発言をひとことで終わらせず、ある程度のまとまりがある発言を心がけるのが当然とされるからです。
結局、上のペーパーは、外国語を教える教師は異文化理解に配慮し、Don't be shy. などと言われても、学生もすぐには切り換えられないのだから、そのことにも気を遣って、「自分の文化と他の文化では、どのような点が異なり、誤解を招くのか、そこをしっかりと理解し,相互理解ができるように、今後の日本の英語教育には、もっと積極的に自分の文化を伝えられるようになる必要があるのではないだろうか」と結んでいます。
言葉は違いますが、これは英語教師に英語を話すときのスキーマを説明しろと言っているわけで、同感です。ただ、スキーマというものが自分の経験に基づいて形成されるのに、学生の方は英語を話すという経験をしていない以上、そもそも英語を話す際のスキーマなど持っているはずがありません。したがって、教える立場の人たちも、英語を話す人々に共通のスキーマがどういうものであるかをもっと研究し、日本語会話の流儀との違いを意識しつつ、明確にそれを伝える努力をすべきだと思います。そうしてこそ、heart-to-heart conversation といったものが可能となり、学生たちが英語を話せてよかったなと思える日が来るのではないでしょうか。
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読んでいて、ガートナー氏がいう 「利用者の視点で考えよ」を思い出しました。
今日の話を含め、Communicationのpointは、とても役立ちます。有難うございます。
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コメントありがとうございます。