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日向清人のビジネス英語雑記帳:スペースアルク
 

2010年2月 8日

間違いを恐れるなとは言いますが

ネイティブの先生たち、特にコミュニカティブな英語が強調されるようになった1970年代以降に英語教授法を習得した先生たちは、コミュニケーションでは、特に話し言葉の場合は間違いなんか気にするなと言うのが普通です。

ところが言われる日本人学生の方は、講義要綱にコミュニカティブな英語を目指してどうのと書いてあっても、それが自分たちが従来から習って来た英語と何がどう違うのかわかりませんから、「間違いを気にするなって言われても,気になるし、恥ずかしい」というのが相場だと思います。

それも無理はないなと感じるのが,実は、ひとくちに「間違い」と言っても、日本の今までの、そして、現在でも続いている英語教育の世界で言う「間違い」とコミュニカティブ英語の世界で言う「間違い」とは、感覚的にまるで違うものだからです。

文法さえきちんとやっておけば、高度の会話能力などはあとからついてくるといったことを言う大物がいるぐらいですから、わが国での英語教育の主流は、英語を知識の体系と捉え、その知識を独占する教師が内容を説明し、練習させ、自力で知識を再現できるようにするという方式を踏襲しています。このような英語観の下では、日本語と英語の作りの違いに着目した上、英語独特の部分を繰り返し勉強することで、英語は習得できるとされます。してみると、この世界では、客観的に存在する英語を教師が写し取って学生に伝授する際に手違いがあったときに、それを指して「間違い」と言っていることになります。教師の教え方が不十分だったか、学生の受け止め方が不十分だったか、あるいはその両方といったことになるでしょう。これをひとまず「教典伝授型英語観」と名付けおきましょう。

これに対して、英語を勉強するということは、教師の指導や仲間との協力で、あるいは英語の実際に触れながら、英語とはこういうもので、使うにはこういう知識とスキルがなければならないということを自分の中で作って行く作業なのだという英語観があります。こうした英語観からすれば、間違いというのは、自分の中にできつつある英語のプロトタイプが、いちおう英語の形に近づいていることを示す、何よりの証拠と言えます。英語を使わなければ間違いを自分や教師が気づくもないはずですが、そうとすれば、自分や教師が気づいたということは英語を使ったからに他ならず、そのこと自体稽古をしている証拠なのだから、歓迎すべきことだという理屈になります。こちらは自力救済型英語観とでも呼べそうです。

そして、自力救済型英語観が先の「教典伝授型英語観」と何が決定的に違うかと言えば、教典伝授型英語観の場合、学習のイニシアティブが教師に委ねられていることから、教師も義務感にかられて弟子の間違いの数をせっせと数えるのに対して、自力救済型英語観の世界では、学習のイニシアティブは学んでいる本人が持っており、間違いは、取り込んだコミュニケーション用のツールの不具合の問題として自己責任による点検に委ねられるということです。一律に間違いを数えては次回、数が減るようにするというより、ひとりひとり違う不具合を確認し、それぞれが一日も早く完成品を手にできるようにするという感覚です。

ここでちょっと考えていただきたいのですが、われわれがテニスやゴルフなどの練習を始めたとして、いちいち球が変な方向に飛んだからと言って顔を真っ赤にして恥じ入ったりするものでしょうか。練習しているうちに、まっすぐ、狙った方向に行くようになるのですから、普通は誰も心配しないし、恥ずかしがったりもしません。本当は英語を話すというのも同じで、勉強を続けている限り、使っているうちに直ってくるのですから、恥ずかしいという思いをする必要などないはずです。それなのに、実際は、英語を話す段になると失敗を恐れて、相手を待たせてまで、言いたいことをきちんと構成しようとするのは、第一には、会話の場合、きちんとしたセンテンスが不要であることについての無知が原因であり、第二は、教典伝授型英語観のゆえに、教典どおりの英語を復唱しなければとの強迫心理が原因だと考えます。

思うのですが、英語を話せるようになりたいということで英語を勉強している方は、ここで発想を変えて、間違えるのは、プロトタイプが自分の中で生成されつつある何よりの証拠であり、間違えても、ともかく英語でコミュニケートしたいという果敢な試みとしておおいに評価されるべきだという視点に立つべきではないでしょうか。

実際、一定レベル以上にならないと自分で自分の間違いなど気づきませんから、その意味で積極的にコミュニケートして、いわば欠陥を探知し、是正するというのは英語を習得する上できわめて大事なステップです。プロトタイプがあったとしても、作業場に置きっぱなしでは駄目で、実際に走らせてみないと不具合がわからないからです。

ですから、言語運用能力の運用指標として世界基準になっている CEFR でも、Monitoring and Repair という項目で、B2レベルのスペックに以下のような事項を挙げているぐらいです。

Can correct slips and errors if he/she becomes conscious of them or if they have led to misunderstandings. うっかりミスその他の間違いに気づき次第、あるいはそういったものが誤解の本となっている場合に、それを是正できる。

Can make a note of 'favourite mistakes' and consciously monitor speech for it/them.  自分でもよくやる間違いを記録し、話をしている際に同じ失敗をしないよう意識的にモニタリングをすることができる。

このようにコミュニカティブ英語の世界では、間違いというのは成長途上のプロトタイプに見られる当然の初期不良みたいなもので、たいした問題ではありません。加えて、話し言葉の場合は、間違ったら言い直せばいいわけですし、不安なら、Is that okay? Do you follow me? Am I making myself clear? Does that make sense? と確かめるのは何でもないことですから、話し言葉ならではの「特権」をどんどん行使すべきです。

ポイントは、話し言葉のレベルを挙げるために、文法や単語の勉強を別途続けることと、前回触れた「化石化」が起きないよう、適当なところで稽古をやめてしまわないことでしょう。

それにしても、Don't be afraid of mistakes. とか It's okay to make mistakes. とか言って励ましているネイティブたちはわが国の英語界がガラパゴスだとは気づいてないわけで、なんだかとても気の毒です。


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Comments

テニスやゴルフ以外の例えとして、子どもを見ていると、2歳ともなると聞いた言葉を自分ながらに再現し、最初のうちは変な言い方を何度も繰り返します。私たち両親や周囲がその度ごとに言い直して教えますが、正しい話し言葉が何かぶつぶつ呟いて考える素振りを見せるようになり、そのうち考えるステップを踏まずに状況に即した自然な言葉を発します。このようなスパイラルによって多くの口頭表現を増やしていく様をまさに今目撃しています。

子どもには親であったり他の人たちとコミュニケートしたい、という強烈な欲望(本能)があるからですね。

英語学習は実はこのような欲望、つまり英語圏の人とコミュニケートしたい、英語文化を知りたい、といった欲求をいかに持たせるかが最大の課題なのかもしれません。

強いコミュニケーション欲求があることで、口頭表現の重要性に気付きその習得に努めたり、継続的学習による能力向上が必須であると自らで思いを強くするものと考えるからです。

英語学習に限らず、本当に優秀な先生というのは、教科や知識のその先にある光り輝く「能力開発による可能性」をありありと提示し、そういった欲求をビシバシ刺激して引き出せる方なのだと思います。

[返信]

ごもっともです。ただ、口ではコミュニケートしたいと言うのに、必要な努力をする人が少ないと感じています。英語の教師であれビジネスパースンであれ、きちんとした英語を話すことが期待されているのに、それをこなせない人は大体が、毎日一定時間以上の「稽古」というものをしていません。英語を知識という側面からのみ捉えているからであり、体に覚えさせる身体知だという側面が軽視されているというのが私の見方です。

鋭い視点にホールインワンを感じます。

前にsomeの概念のわからない高校英語教師と話をしたことがあります。someの概念がわからないのはかなりひどい方にはいるのだと私は思いますが、しかし、ネイティブもネイティブで、高学歴の日本人であると知ると、ある程度学校できちんとした基礎を学んできたと誤解し、学術的な英語が出来るという判子を押したがります。まさに、ブラックホールですね・・・!

[返信]

いろいろなご経験があるようで、感心しました。

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