2010年3月 1日
落伍者を当然視する英語教育
先日、東大の入試が新聞に出ていました。ネット上ではこちらで問題と解答が見られる他、モリテツ先生が気の利いた解説をしています。
この東大の英語の問題をながめていて感じたのは、特に最初の長文読解などそうですが、ネイティブでも大変だろうなということです。それで思い出したのが、そもそも EFL (English as a Foreign Language=外国語としての英語学習)という発想で教えるアプローチ自体、最初から落伍者が出ることを織り込み済みのものだという話です。
これはブリティッシュカウンシル(わが国の国際交流基金がお手本としたイギリス政府の文化交流事業)の委託を受けた応用言語学者の David Graddol がEnglish Next で書いていることですが、英語ネイティブの社会や文化を研究し、そういう人たちがどのように英語を使ってコミュニケートしているかよく見なさいというのが EFL のアプローチであり、そこでは、学習者はいわば英語界プロパーから見れば、どこまでもお客様扱いであり、住む権利が認められないのはもとより、権威という点で常にネイティブが上位に立つことを認めさせられてきた、と痛烈です。
このように、ネイティブをインサイダーとすれば、ノンネイティブはアウトサイダーという構図がある上、中等教育で導入されるのがこれまでの例である英語教育のあり方を見ても、たいてい文法的な正確さ、ネイティブを基準とする発音、そして文芸作品の鑑賞を柱とするが、そこでの基準がネイティブである以上、学習者は滅多に完璧なレベルにまでたどり着かず、最初から、アウトサイダーであり、かつ、落伍者になることを運命づけられているというのです。
続けて Graddol は、(戦前の日本を思い出しますが)一定水準以上の外国語ができる人しかエリートの仲間入りができないという仕組みを保つため、外国語の能力が選別に使われて来たという側面もあるという指摘をした上、そのことを別にして考えても、EFLのアプローチは最初から、英語学習に失敗する人々を生む素地があったし、実際にも失敗者を生み続けているとして、こう言っています。
In those countries where passing English exams has been made a condition of promotion or graduation, it has often led to considerable stress and resentment by learners, rather than significantly enhanced levels of proficiency. 英語の試験に合格することが昇進や卒業の要件になっている国々では、学習者の英語運用能力がそれにより大きく伸びているというより、むしろ、学習者が多大のストレスを感じたり、腹立たしい思いをするという結果を招いている。
それでは英語を一つの条件として課し、水準に満たない者をふるい落とすアプローチに代わるものは何かと言えば、Graddol は、CEFRが採用している、Can-do 方式による到達目標の明示をその一例として挙げています。
そりゃ人情として、「あんたはこれが出来ないから駄目」という減点方式より、「これが出来るからOK」という加点方式のほうが気分はいいだろうなと容易に想像できます。
また、英語検定の結果を従業員の能力評価に使おうという企業にとっても、御社のAさんは800で、Bさんは600と言われてもよく差がわかりませんが、BULATSのように、Can-do 方式に基づいて、このレベルの人は、「他人がチェックすることを要するが、「ひとまず事実の報告や通常業務に属するレターは書ける」(B1)という評価をもらう方がわかりやすいと言えます。
考えてみれば、英語を母語としない人向けの英語教育というのは、もともとはイギリスの植民地行政の便宜のためだったわけであり、今の時代のように、英語がノンネイティブどうしのコミュニケーションに使われることが多いとなれば、ネイティブを本家本元扱いする一方、英語をエリート選別の道具にして、大量の落伍者が出ることを当然とするような英語教育は見直されてしかるべきです。
仮にエリート選抜で何が悪いんだ、英語なぞはエリートに任せておけばいい、国民一般の英語力を底上げする必要はないんだという立場に立ったとしても、選抜を経て来た公費留学生の英語力がこの程度では、話になりません。ご覧になればわかりますが、reforms, private sector, merge といったむずかしい単語を繰り出しているのに、ものを尋ねた相手にWhat's the bottom-line question?(お聞きになりたいのは何ですか?)と言われるようじゃおしまいです。こういう的外れで効果がない英語教育こそ事業仕分けの対象にしてもらいたいものです。
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明治時代や或いは江戸時代の知識人は漢文で鍛えられているので、言語中枢特に読解力が発達していたのではないでしょうか。例えば江戸時代の辞書も無い時代に翻訳された解体新書など良い例だと思います。
当時は当然行った事の無い中国を想像しながら、中国の聖人(孔子)の教えを学ぶわけですから、必然的に抽象的な言葉からイメージ化する力が鍛えられたのだろうと勝手にそうぞうしています。
[返信]
なんかそういう世界だったのかなと同感です。たしか、漢字情報を処理する脳の部位と表音文字を処理する部位は違うんですよね。そういったことを考えると、改めて漢字文化は立体感があっていいなと感じます。
- 中年通訳者
- 2010年3月 8日 07:17
私も東大の入試問題を見てみましたが、良くて50点かな、と思います。TOEIC の方がよっぽど簡単だと思います。この問題を18~20歳の若い人が解くのは、本当に大変だと思います。
おっしゃる通り、英語が選別の道具に使われなければ、と思います(もうすでに、使われていますかね・・・)。英語を勉強して好成績だった人がストレスを感じているようでは、お先真っ暗ですよね。
ところで、年末ドラマ「坂の上の雲」を見ましたが、ドラマによれば、明治の志士たちはかなり流暢に英語を話していましたよね。原作からも、その様子が伺えます。必死になっていたことは間違いないと思いますが、どのように勉強したんでしょうね?
[返信]
あの英語のむずかしさは入学試験ではなく、卒業試験として課するのが筋だと感じました。
明治人の英語ですが、私の知る範囲では、お雇い外人からせっせと生の英語表現の吸収に努めたようで、文法より、ディクテーションやら原文の筆写やらで表現をそのまま吸収するように努めたようです。有名人の英語で書かれたノートをいくつか見たことがありますが、やはり書いて覚えるというのは有効な学習法なのでしょう。
ただ、発音の方は、どうだったんでしょうね。CDなど生の音声に触れる機会もまずなかったわけですし。何かの本に福沢諭吉のしゃべる英語はかなりの自己流だったのようだということを読んだおぼえがあります。
- めいけんとパパ
- 2010年3月 1日 20:51

東大の英語の試験問題を拝見しました。最初の英文読解ですが、一体何を伝えたいのかさっぱりわかりませんでした。一言でいうと完全な悪文です。スタイルといい、sentence structure、coherenceといい、かなりawkwardでconfusingな文章です。科学系の英文記事と比べると余りにも雲泥の差がありすぎます。明らかに日本語を直訳したような文章という感じがしました。最後のパッセージと比較するとその差はもう歴然としています。
[返信]
こういう試験に合格する人の頭の中ってどうなってるんでしょうね。ましてや、得点が高いとなるともっとコワイ感じです。結局、出題者も合格者も独特の英語を通じてわかりあい、連帯感を高め、気持よくすごすんでしょうか。