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日向清人のビジネス英語雑記帳:スペースアルク
 

2010年3月11日

(上)英語文化はローコンテクスト

会社勤めしている人たちがぼやいたり、嘆いたりしているのを聞いていると、おおざっぱに言って、部下に対する不満では「いちいち言わないとわからんのか」という趣旨のものが多く、上司に対する不満としては「わかってくれないんだよなあ(言わなくてもわかるはずなのに)」というのが多いと感じています。こうした傾向は外国人社員や役員の会社が要ると強調されるようでもあります。

この種の話を耳にするつど、これが近頃よく言われる「社会のローコンテクスト化」なのか、本当なんだと改めて感心します。ローコンテクストについては、あとで見て行きますが、とりあえずここでは「言語化」と読み替えるとわかります。

★ ローコンテクストは言語化

日本人どうしは一般に暗黙知を共有している度合いが多い分、言語化しなくて済む部分が大きいハイコンテクト文化だとされますが、それも年代によって濃淡が違うので、共有されている(あるいは共有されていると「される」)暗黙知の領域がずれているのに、その部分を明示的な言語で補うことを忘れると、当然、「いちいち言わないとわからんのか、そんなこともわからんでどうする!」といった衝突に結びつくのでしょう。

つまりハイコンテクスト型の上司から見たローコンテクスト型の部下はいちいち言わないとわからない気の利かない奴と映り、ローコンテクスト型の部下から見たハイコンテクスト型の上司は、100作業分の仕事なのに、10作業分の指示しかしない言葉足らずの人間です。

特に大企業の場合は、こういった問題が顕在化します。組織の中では横との連携を確保しつつ、組織の上下間で、いわゆるホウレンソウつまり報告・連絡・相談を欠かさないようにして情報のやり取りをするわけですが、言語でのやり取りがあっても、その部分が実は「氷山の一角」で、本当に大事な所は水面下の部分(コンテクスト)だというのでは、みんながみんなそういう文化を共有しているならともかく、そうでないと、いわゆる「風通し」が悪くなってしまいます。

こうしたことから、近頃、大企業では、敢えてローコンテクスト化、つまり、今迄だったらいちいち言葉にしていなかった部分まで顕在化させ、言語化することに努めているのでしょう。

この点、英語を使うとおのずと何から何まで言語化する必要があるのを受けて、業務を英語化してしまう例が目を引きます。日産のようにフランス人社員との意思疎通の必要がある所ならともかく、すごいと思ったのは、楽天のようにこれまで基本的にはドメスチックな会社だったのが海外進出を意識して、英語で朝会をやるようになったという話です。(楽天の会議の英語化については、同社の社員とおぼしき方が書いている、この「なおしブログ」が雰囲気を伝えてます)

★ ローコンテクスト/ハイコンテクストとコミュニケーションスタイル

ローコンテクスト文化とハイコンテクスト文化がコミュニケーションスタイルの違いとしてどう表れるかについては、Haru Yamada が Different Games Different Rules (Oxford University Press) で言っている、英語は「話し手責任」の世界、日本語は「聞き手責任」の世界という枠組みがわかりやすいと思います。ローコンテクスト文化では言語がすべてというアプローチなので、会話を通じて授受されるコンテンツも、もっぱら話し手の責任で形成され、伝えられます。一方、ハイコンテクスト文化では言語化されている部分の背後にコンテクストという要素があり、その部分は話し手としては言語化して伝えたりしないので、聞き手の責任が重くなります。聞き手は言語化された部分を受け取ると同時に「暗黙の了解部分」を解読することが当然とされる世界です。

こうした違いから、英語の場合、話し手は、state and prove (何か言ったら、どうしてそう言えるのかも説明する)というアリストテレス以来の論法を念頭に、わかりやすく話すよう心がけることが求められ、その延長線上では、that's why...what's more...などと「ロジックの流れがわかる標識」を要所要所で入れ、また、certainly, probably といった、「これから話す内容や感じがわかる標識」を先に出しながら話を進めていきます。ひとことで言えば、英語で話す場合は、discourse management(やり取りを統御するスキル)が要求されるのです。

対照的に、日本語の場合は、聞き手が「察して」くれるはずだという甘えないし依存が許されるので、一から十まで言わなくてもいいとか、いちいち言葉にすると角が立つといった感覚があり、この結果、曖昧で多義的な表現が好まれたり、論理の飛躍があっても互いになあなあで済ましてしまうことにもなります。

話し手の方も聞き手のよる「察し」を助けるため、いきなり結論を打ち出したりはせず、聞き手が「ははあ、この話はこういう話で、こういう方向へと流れるのか」とわかるよう、前座的なやり取りをするものです。このようにそこでの話が何の話かについての理解を深めるための話を Yamada は、"talk about talk" と呼び、これは聞き手の便宜のため、最大限の解釈の余地 (maximum listener interpretability) を確保するために重要だと説いています。

★ Is that a yes or no? はローコンテクストの象徴

こうした日本流のコミュニケーションスタイルが裏目に出たのが、先日の米議会での豊田社長の話し方でした。委員長が、オーバーライド(アクセルとブレーキが両方踏まれた場合、ブレーキを優先する機能)を全車種に取り付けるつもりはないのかと質したのに対して、豊田社長、おもむろに「この問題には4つの要因がありまして・・・」と始めたものですから、ストレートな Yes または No を予想していた委員長、「えーっ、その答えは何なの」という感じで、身を乗り出して、こう言っていました。

Is that a yes or no? ... I'm trying to find out, is that a yes or no?

この "Is that a yes or no?" という言い方は、ひどくきつい感じも受けますが、コンテクストをすべて捨象し、言葉という形式だけでものごとを決めようとするローコンテクスト文化の象徴みたいな言い回しであり(ですから、法廷ドラマものでよく見聞きします)、こうした見地からすると、あの委員会での話のかみあわなかった場面も、ハイコンテクスト型の人間がローコンテクスト文化の牙城に引っ張り込まれているのに、日本の流儀で臨んだための悲喜劇と見ることもできます。しかも、困ったことに、文化の違いによるコミュニケーションスタイルの違いにまで頭が行かない連中には、「質問をはぐらかしている」と映ってしまうことにもなります。

つづく

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Comments

最近のメディアを見ていると、英語文化でも、言語情報が不十分だったり、間接的なメッセージを送るケースが頻繁に行っています。英語圏は確かにlow-context orientedですが、時にはhigh-contextualな部分も、時と場合によってよく見受けられます。グローバル化やpost-modernismの影響からか、文化自体がfragmentし始めている感じがします。特に、過去、欧米の植民地だった東南アジアや中南米諸国の多くは、free marketによる多国籍企業のビジネス介入の結果、hybrid-cultureという複雑で厄介な現象が起こり、地元の人々の生活に大きな影響を与え始めています。

ちなみに話は変わりますが、英語圏のインテリはAristotlerian式アプローチに傾倒しているかというと、必ずしもそうではないようです。例えば、私が専攻しているコミュニケーション研究では、Aristotlerian式アプローチは絶対的ではなく、これに取って代わるさまざまなアプローチ(欧州式のEnlightment、Post-Structuralism)や聴衆の存在やideology、contextに趣きを置いたりなどさまざまな工夫がなされています。

[返信]

前半の場合によりhigh-contextualと指摘されている点、おもしろいと思ったのは、エンロン事件を含め、大企業の内幕ものを読むと、大抵、シニアマネジメントのレベルでは、特に長年いっしょのチームだとhigh-context になっていることです。

あと、アリストテレス式論法の話、アメリカの作文教育を方向づけたAlexander Bainがロジックの部分だけ抜き出して強調したのが、その後、今度はKaplanが専らarrangement の角度から 取り上げるという具合で、論者が思い思い persuasive language (logic), rhetorical appeals, arrangement というアリストテレスが取り上げた三要素を組み替えたり,落としているだけで、実は大きな流れとしてはそうは変わっていないという印象を持っています。

日向様 ご紹介ありがとうございます。
実は同じEdward T. Hallのさらに古いThe Silent Language '59 & The Hiddetn Dimension '66はカウンセリングのコースで読まされましたが、私以外には黒人米人4名が有色人種。400名前後の学生は lily whiteというクロスカルチャーに無縁の環境で、ご紹介の本にはかすりもせず。早速入手して読んでみることにします。
インターナショナル・ビジネスやクロスカルチャーを専門とする人々にはよく知られているのでしょうが、ハイ/ロー コンテクストはいわゆる狭義のロジックを包含する上位概念的に捕らえる視点は一般の米人たちには驚きでしょうね。
少なくとも私の母校の教授連中は、解釈学や論理学ではアリストートル以来伝統の西欧式ありき。それに従わない異なる論理で書いたりしたらグレードはFだったはず。
慣れた狭い分野から視野を広げ、知的好奇心をもって本を読む気にさせてもらえる点でも嬉しいプログです。
今後も楽しみにしております。

[返信]

ヨーロッパ大陸の人たちと比べ、意外と英語圏のインテリは了見が狭いのかなと感じることがあります。この点、Milton Bennett の Basic Concepts of Intercultural Communication などはバランス感覚があり、感心させられます。

私はローコンテクスト型かと思いますが、”最近の若者はいろいろ説明(&指導)しないとわからない”とか言われることがあるかと思いますが、それは、若い世代ほどローコンテクスト型になってるということでしょうか? 一方、若者にも”空気読めない”と言われる感覚があるのも事実ですね。

私は基本的にはローコンテクストの方が誤解もなく、分りやすくて良いと感じますが、日本の文化では、相手の言葉から推測してうまく答えを返すことも社会人としてうまくやっていくには求められているなと感じることがあり、難しいと思うことが多いです。

YES/NOでも無い答え方は、特に会議の議事録を取るときなど、”え?結局どっち?”と悩むことがあり、分りにくいですね。

[返信]

結局、日本文化ということでは、ハイコンテクストの方が効率もいいし、人間関係の温かみが保たれるという意味でも、是正する必要はないと思いますが、他面、ローコンテクストの人たちとのつきあい方も心得ておく必要があるようにも思います。

上海にあるMBAスクールでマーケティング論を担当しているアメリカ人女性教授に、「クラスの60%が英語を母国語としない中国人ですが、アメリカ本土のトップスクールと比べてworkloadに違いがありますか?」と聞いたところ、「目指してる到達点に違いはないのでworkloadというか品質には違いはないけれども、due to the language barrier, students don't (always) read behind words. So, I am telling teachers to get sensitive to it.」と聞こえたような気がします。 話を聞きながら、ついついこの雑記帳の記事が頭によぎりました。

先生の「即戦力がつくビジネス英会話」はMBAの面接にも大助かりです。20章まで駆け足で到達した段階で昨日のCEIBSの面接に臨みましたが、極度の緊張の中でも、何度も本文のコロケーションを使いました。相手がアメリカ人だったということで、安心して使えたということもありますけれど。

[返信]

英語を熱心に勉強している方の役に立てて、うれしく思います。CEIBSというのは寡聞にして知りませんでしたが、ネットで見ると、あの INSEAD と提携しているんですね。たいしたものです。受かるといいですね。

こんにちは。日本国内でも個体差はあるわけですね。
ローコンテクストの代表はてっきりUSだと思っていました。なにしろ国土が広く地域差があり、かつ世界各地からの移民の寄せ集めで価値観や常識も多様。いちいち言葉を定義しないと同じ単語を使っていても自分の意図が相手に伝わらない可能性は高い、そうしたお国柄ゆえ。
OK?と確認した後、次の論点へ進めたり、相手の表情を見て理解されてないと感じたら、Let me rephrase it. I meant....と同じ内容を再度言ったり。話し手の責任でわからせる努力をするのが当たり前。またわからないことは質問するのがあたりまえ。聞かないほうが、言わないほうが悪い、ということになる社会です。寡黙な日本人にはうるさいと感じられるかもしれませんが、多様な社会で誤解を避けるためには避けて通れないことです。

日向氏が例としてお書きの公聴会でのやりとり。ハイ/ローコンテクストの違いもさることながら、まず論理の食い違いが大きかったような?委員長はじめUS側は西欧型三段論法で物を考えますから、Aか?と聞いているのに、「Aです」とも「A ではありません」とも言わずに 「Bではなくて、Cでもなくて。。。」とまわりまわったことを長々言われると、少なくともUSの一般では多数がAか?という質問の答えとは受け取らない。まず、イエス/ノーを答え、説明させてくれ、と断った後に愚だ愚だ言うならまだしも。
100%日本式答弁をやりだした豊田氏の日本語を聞いてあきれた次第。委員長の質問を理解していなかったのか?と思ったほど。あの場面、隣にいた通訳と何度も話しながら言い足していましたが、元の質問に端的に答えていない返答が続いたために、委員長はついに切れた感じでした。
まあ、委員長にすれば、豊田氏が日本を代表する大企業のトップだろうが、公聴会に呼ばれた証人であり、質問に答えないから、答えるように求めたのでしょう。ただ、法廷以外でも親が子供に言ったりはしますが、あの委員長の聞き方をされた経験はありません。逆に私は日本人たちにさぞかしうるさいやつだと思われていることでしょう。

[返信]

おっしゃる「論理の食い違い」もハイコンテクスト/ローコンテクストの違いと捉えることができます。豊田氏の(少なくとも表面的な)ロジックがA と Non-A をしっかり区別しないのも、ハイコンテクスト/ローコンテクストを言い出した Edward Hall に言わせると、ハイコンテクストでは most of the information is already in the person,while very little is in the coded, explicit, transmitted part of the message であり、したがってアナログ的発想だと言えるからです。もう、お読みかも知れませんが、Edward Hall の Beyond Culture は古い本ながら、今なお、「そうか、そうだよな」と感じさせてくる名著です。

私も日系会社のハイコンテクスト文化には時折戸惑うことが多いので同感致しますね。
あくまで個人的な見解なので現実の的を射てない部分もあるかもしれませんが、英語に対する素養があるかないかで、(日本語においても)かなり思考形態に人によって差があると感じることがあります。不思議と、一定以上の英語という言語に対する素養…あるいは視点を変えてみれば文化の異なる海外などの環境で「甘え」や「文脈」といった日本的な発想が通じにくい環境で程度の差はあれ過ごした経験を持つ人は、自身の物言いに「客観性」「論理性」がそうでない人たちに比べて高いと感じますし、端的に言って「話がわかりやすい」のです。
また、私の場合多少なりともそういう影響もあってか、自分の発する言葉=本心(タテマエなどではなく)であるケースが多分に多いので、例えば何かの折に謝罪するなどのケースにおいて、「本当に悪いと思ってるのか?」などとクドクド言われると「思っていなかったら謝罪してないのに」と思ってしまいます。
もちろん、私自身に多少柔軟性が欠けるという点も認めつつも、それでもやはり、コミュニケーションのわかりやすさという点ではずっとドメスティックな環境でいた人、同じグループでしか付き合ったことのない人より、様々な環境を渡り歩いてきた人の方が優れているという一般的傾向は、やはりあるかな?という思いは色々な場面で感じることが多いですね。興味深いテーマでしたので、コメントさせて頂きました。

[返信]

「一定以上の英語という言語に対する素養…あるいは視点を変えてみれば文化の異なる海外などの環境で「甘え」や「文脈」といった日本的な発想が通じにくい環境で程度の差はあれ過ごした経験を持つ人は、自身の物言いに「客観性」「論理性」がそうでない人たちに比べて高い」とおっしゃる点、よく外国語を勉強すると言葉への理解が深まり、母語の能力も高くなると言いますが、そのことの表れではないでしょうか。

我が家はかなりのローコンテクスト(私)と超ハイコンテクスト(妻)の夫婦です。互いがそのままのスタイルで成り行きでやっていると、全然合わず、「言わなきゃわかるはずがない」「どうして言わないとわからないの」の口論は数限りなくやってきました。

しかし、互いの生まれ育ってきた環境を知れば知るほど、なぜ私が非常にローコンテクストなのかを妻は多少は理解するようになり、私も、妻がなぜ極度にハイコンテクストなのかが判るようになりました。というか、「そうなったのはまあ当然かな」と、互いに思うようになりました。今は結婚して6年になりますが、子供と3人で毎日楽しくやっています。子供がどちらのタイプかは、まだわかりませんが…。

互いに相手がなぜそうなのかを理解しようとする気持ちを失わなければ、タイプが違っても組み合わせとしてうまくいくことは十分にあると思います。逆に、互いに「なぜあなたはそうなのか」と、自分を「正」に据えたスタンスになってしまうと、とてももたないと思います。タイプの違いであって、べつに「どちらが正しい」というわけでもないので。

余談ですが、ローコンテクストとハイコンテクストの話では、前者の代表がドイツ人、後者の代表が日本人というのをよく聞きます。

そんな風に対極にあるといわれているにもかかわらず、複数の会社のドイツ人と仕事をして意気投合している場面が勤務先でよく見られるのですが、面白いものだなぁといつも思います。

質実剛健な国民性と、それが強みとなりやすい製造業の強さなど、共通する点は確かにあるという気はしていますが。

[返信]

Kenさんご夫妻は異文化交流の鑑ですね。

たしかに一般に北ヨーロッパの国々がローコンテクストの代表としてよく挙がりますが、同じドイツでも北の人と南の人とではまるで違うと言いますし、結局、こういうカテゴリーというのは平均値みたいなもので、けっこう具体例と比べると誤差に幅があるということではないでしょうか。

ついこの間、彼とけんかしたばかりです。

私は、英語を使う機会や、外国人と仕事をしたり生活をすることが多かったため、常に理由をつけて具体的にはっきりとものをいう癖がついています。
英語で外国人と話をするほうが、日本人と話をするより、自分の考えが率直に伝えられてとても快いのです。

彼は海外旅行経験もない日本人なのです。
以前から、彼の何が言いたいのか分からないアドバイスなどが気になっていました。あまり角が立たない程度に「それはなぜですか?」とか「どういう根拠があってでしょうか?」などと聞いていました。
その度に彼はいやな顔をします。
そのような話し方に慣れていない彼は、私に聞かれても的確に答えることができないのです。

先日は、「言わなくても考えればわかるだろ」と言われました。
正直、、、、考え方はひとそれぞれなので、言ってくれないと分からないし、納得もいきませんね。。。。。
こういう話をすると 屁理屈 とか 生意気 で片付けられてしまいますが。
私はそうは思いません。分かりやすくて良いと思います。

[返信]

言わなくてもわかるだろ、という相手に対しては、互いのものの見方や考え方が大部分重なっていて初めてそう言えるのであり、通じないとなればみずから説得できるだけの材料を並べなきゃいけないと言いたくもなりますが、そもそもそんなことを理知的に解決すべく口で言わなければならないぐらいなら縁がないようにも思えますが、どうなのでしょう。

理知的な恋というものがあるとして、どうもそれは燃えない火と同じぐらいおかしなもののように感じます。

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