2010年03月15日
話し合いとロジカルな議論の違い
前回の記事につき「研究者さん」がコメントで、「日本人はローコンテクストを避ける傾向があり、ロジックを駆使しなければいけない日本人研究者同士でも起こり、コンストラクティブな議論が出来ない時があります」とおっしゃっていましたが、やっぱり研究者というレベルでも、(西洋的)議論の文化が根付いていない例もあるんだろうなと思いました。いや、根付いていないと言うより、むしろ、日本には日本なりの、独特の「話し合いの文化」があるのに、それが英語文化を背景にした「議論の文化」と混同されていることが見落とされていると言うべきなのかも知れません。
国語辞典はどうやらこのあたりをちゃんと意識しているようで、金田一春彦編『学研現代新国語辞典』で「議論する」を引くと、ある問題について自分の意見をのべたり相手の意見を批評したりして、(筋道をたてて)論じ合うこと」とあり、互いのロジックの「比べっこ」であり、ロジックが弱く、つまり、筋道が立っていないと、議論に「負けて」しまうであろうことを読み取れます。勝者がいれば必ず敗者がいるゼロサム・ゲームの世界です。
一方、「話し合う」を引くと、語義の一が「互いに思っていることを話す。語りあう」であり、「将来の夢を話しあう」という例が出ています。語義の二は「互いに理解したり、よい考えを出したりするために話す」であり、「領土の返還について話し合う」という英語感覚からすると考えられないような例文が出ています。話し合いの世界はノン・ゼロサムの世界であることがわかります。
今でこそ、演説とか討論という言葉が普通に使われていますが、いずれも福沢諭吉先生が明治の時代に speech と debate の訳語として当てたことから始まっているぐらいで、そもそもロジックを駆使して自分の考えを述べたり、相手の主張と闘わせるという発想じたいそれまでの日本にはなかったことをうかがえます。
このことは、1874年に福澤先生が門下生と執筆した「會議辯」という本を読むとよく様子がわかります。英語での会議のバイブルに相当する Robert's Rules of Order とディベートの教科書を足して二で割ったような体裁の本ですが、なぜこの本を出したかを説明している最初のところで、昔からわが国でも人が集まって相談することはあるけれど、「談話の体裁」が整っておらず、学者どうしの議論であれ、商談であれ、あるいは政府の評議でも、「正しき談話の体裁を備えて明らかに決着」をつけるようなことが行われていないので,時間と費用が無駄になっていると指摘しています。そして、本文では、議論を「可議」、「否議」に分けた上、自己の主張をより良く述べ、相手の主張を論破するための議論の方法が語られています。
このように英語的な議論の文化自体、導入されてから 100年ぐらいしか経っていないわけであり、英語教育が100年前と変わっていないことを考えると、まだまだ英語流のロジックに基づいた議論というもの自体、皮膚感覚レベルで理解されていないと考えたほうがよさそうです。特にメディアは、政治家の発言を捉えて、合理的でないとか、曖昧だとか、いろいろ批判をする場合、気づかずに日本的な話し合いが行われている場面に西洋風の議論のロジックを持ち込んでいるような気がします。
例えば、メディアによって優柔不断だ、時間をかけすぎる、あるいは、発言がコロコロと変わると批判されている鳩山総理の言動も、日本的「話し合いの文化」という視点で見ると、まるで違った姿が浮かび上がって来ます。
日本的な「話し合い」がどういうものかは、中澤美依「村寄り合いの「話し合い」の技法ー日本的コミュニケーション文化の原型を探る」(平安女学院大学研究年報 1, 83-94/, 2000) が詳しく説明してくれていますので、それに即して、鳩山総理ないしは民主党政権における普天間問題をめぐる「ディスカッション」のあり方をちょっと見ておきたいと思います。
まず、西洋的議論の文化では判断材料の提示と思考のプロセスがすべて言語化されるのに対して、日本的話し合いでは、極力言語化が避けられ、問題は個人の心の中に留められると言います。つまり、日本的な話し合いにおいては、対立する主張を直接かわすのではなく、複数の話題を並行して審議する中で、時間を置いて間接的に提示する手法が取られるというのです。英語型ないし西洋型の議論では言葉がすべてであり、意見もそれに対する批判もすべて言葉を通じて行われ、合理・不合理が言語化されるので、最終的な選択ができます。ところが、「話し合い」の場では、
相異なる意見がまるで打ち上げ花火かのように提示されていき、これに応じて当事者は「そのすべてを個人のこころの中に取り込んで、自分の立場からそれぞれの意見とのダイアローグを開始する。そしてどの意見に賛成すべきか、また、すべての意見をどのあたりで折り合いをつけるべきかと思案をめぐらせる。その上で、必要なら修正意見をまた場に打ち上げ、これを聞いて、参加者はさらに自分の中で思案をめぐらせる。そんなプロセスを繰り返している間に、やがて、結論の「おさまり」どころが参加者全員に見えてきて、それが結論となる。
これなど、まさに今の普天間問題をめぐって様々な案が出されている状況にぴったり重なります。混沌としているかのようで、ムラ的な意思決定のプロセスとして見れば、それもアリなのかと感心します。
また、この論文は、話し合いという場は個人の意見の対立の場ではなく、あくまで集団で思考する場である以上、そこに提示される発言も「意思決定までの予備的、経過的、過渡的なものにすぎない」という中野収の説明(『日本型集団主義』(有斐閣 1995年)所収の「日本型組織におけるコミュニケーションと意思決定」)を引きながら、このことから、「たとえ個人が何らかの発言をしても、その後の話の展開によって、まったく逆の発言をすることも一向にかまわない」のだと指摘しています。事実、こういう視点に立てば、鳩山総理を初め民主党政権の関係閣僚たちの発言が二転三転するのも、何も驚くことではないとわかります。
最後に鳩山総理がよくリーダーシップがないと批判されている点も、日本的話し合いのリーダーは西洋文化のリーダーとは違うのだという見方に立てば、何と言うこともありません。日本はまだまだ農耕社会的なムラなのだと言える限りにおいて、メディアが前提としているリーダーシップ像が間違っているとすら言えるのではないでしょうか。
この点、中澤先生の論文では、高取正男『日本的思考の原形』(岩波書店 1975)に基づいて、「人々の心がひとつのものに融けあいはじめた潮時をみはからい、長老たちが村の先例や昔の体験を語り、それにことよせて最終の決断がなされる。長老とか指導者の役割は、その潮時の掌握にかかっている」というリーダー像があることを紹介しながら、西洋の文化の中では、「話し上手」がリーダーの条件だが、わが国のムラでは「聞き上手」であることが求められるとし、
あくまで集団の合意形成を目的とする話し合いでは、結論としての「おさまり」どころがみんなに納得できる形で見えてくるまで、根気強くすべての成員の意見を聞き、そのこころの動きに気をくばりながら、話し合いを継続させていく。現在のコミュニケーション用語を使えば、まさに"facilitator" の役に徹することが、リーダーとしての一番重要な資質
なのだと結んでいます。
なるほど鳩山総理も、西洋風の議論を引っ張るリーダーという目で見れば落第ですが、こういう日本的リーダー像という目で見れば、教科書通りの理想像とすら言えそうです。
考えてみれば、会社の会議なども、純然たる英語ベースの会議と異なり、大体が pre-task talking と呼ばれる本題に入る前の部分にけっこう時間を取っていますし、いたる所で、実は日本的「話し合い」が見られます。つまり英語的な感覚で言うディスカッションと言うよりは、ムラの寄り合いでの擦り合わせ、ないし相談という感覚による会議が世の中の大多数ではないかと思われるのです。
他面、英語の勉強という見地からすれば、英語の会議あるいは論議というのは何から何まで言語化するのが特色だという点はおさえておく価値があります。そしてもう一つ意識しておく価値があるのは、なるほどすべてを言葉に託して時には厳しいやり取りをすることはあるけれど、それは飽くまでも相手の「主張」を対象にしてのものだという点です。What you're saying doesn't make sense. (言っていること、筋が通っていませんよ)という言い方はしても、日本式の「あんた、おかしいよ」に相当する、You don't make sense. といった言い方はしない、いや、してはいけないということです。
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>>日本はまだまだ農耕社会的なムラなのだと言える限りにおいて
う~ん。最近読んだ古い本では、著者のイギリス人が、「cultureとcivilizationがイギリスでよく比較対照される言葉である」と説明し、
culture=内に起きる原因
civilization=外にあらわれた結果
という解説を加え、そこに、「cultureは、agriculture(農耕)に由来していて、けっこう土臭い言葉なのです」とか書いてあるので、まだまだ農耕文化は西洋(イギリスですが)に根付いているのではなかろうかとふと思ったのですが。
[返信]
culture と civilization の解説、説得力がありますね。言葉の遣い方という角度から見ると、cultured は、教養があり、志向が洗練されている人間を指すという意味で「内」の世界ですし、civility は、politeness を指すという意味では「外」の世界ですよね。ちなみに、江戸時代に日本を訪れた外国人たちは上から下までcivil であるのを見て、西洋社会以外は野蛮だという先入観を覆され、驚いたようです。