2010年5月27日
ボツワナの英語教育、日本にそっくりです!
ボツワナという国、おぼえてらっしゃいますか。2002年に日本国債の格付けが引き下げられ、ボツワナのそれを下回ったため、南アフリカの上に位置するこの国が急に知られるようになりました。どこかの大臣が「国民の半分がエイズという国と比べたりするのはけしからん、何か意図がある」と発言し、ひともんちゃくあったりもしました。
今回は、そのボツワナでの英語教育がわが国の英語教育と似ていて、おもしろいという話をさせていただきます。
このボツワナという国、公用語が英語であるため、初等教育の最初の2年は現地のセツワナ語で行う一方、英語がひとつの教科として教えられます。そして3年目以降は、英語が教育分野での公用語となり、数学や地理といった一般科目が英語で教えられるようになります。
これだけ聞くと、2013年度から実施される、高校での「英語を使用した英語の授業」とのからみで、けっこうなことじゃないと思えます。
この点、文科省は、なぜ「英語で」なのかにつき、「生徒が英語に触れる機会を充実するとともに,授業を実際のコミュニケーションの場面とするため」だと言っていますが、いくら英語で授業をやっても、やり方を間違えると、ちっともこの目的が達せられないことを示すいい例がボツワナの例です。
言語政策が学校現場にどう影響しているかという問題意識に立って、教室での観察データや分析を基にボツワナでの英語教育ないし英語による教育を研究した論文(Arthur, Jo and Martin, Peter(2006) 'Accomplishing lessons in postcolonial classrooms: comparative perspectives from Botswana and Brunei Darussalam', Comparative Education, 42: 2, 177 — 202)によると、授業の進め方は、教師中心で、しかも、IRFアプローチ(=わかるかな?という教師のInitiation+答えは何々ですという学生の Response+そうだね/ちがうねという教師からの Feedback)をベースに、学生が個別に答えるか、クラス全体で一斉に答える方式が基本だとのこと。
これを読んですぐ、あっ、日本と同じだと気づきました。読者の多くの方がおぼえているように、わが国の教室での英語の授業はだいたいが、
教師:We are waiting for Taro. (板書して)、みなさん、この文はどういう意味か、わかりますか?
学生:進行形です。
教師:そうですね。進行形です。
という進め方によっていますが、これが IRF アプローチと呼ばれるものです。
クラスの全員が一斉に答えるというのも今なお、わが国の教室で行われている方式で、「まず教師が一文を朗読する。そのあと、一文ずつ、クラスでコーラスリーディング。そのあと、指名して、一文ずつ読ませて意味を言わせる」といったことが行われています。中には双方向のやり取りが前提のオーラルコミュニケーションの教科書なのに、コーラスリーディングで音読させる先生もいるようです。
この IRFアプローチ、何がいけないのと思われるかも知れませんが、このやり方は、知識を「所有」している教師が知識を持っていない学生にそれを分与するという発想に基づいており、英語に関する知識を得ることにはなっても、それを使うために必要な身体知にはなりません。すなわち第二言語習得論の研究者たちは、実践的コミュニケーションの経験を通じて無意識に身体知が形成されることを acquisition (言語獲得)と呼び、教育や指導の結果、意識的に習得される言語に関する知識の移転である learning (言語学習)と区別していますが、IRFアプローチのような learning を前提とする発想は効率の悪いことがわかっています。そうとすれば、文科省が英語による授業の導入根拠としている「授業を実際のコミュニケーションの場面とする」ことが実現するかおおいに疑問と言わざるを得ません。
この点、George Yule は、The Study of Language (CUP) の中でこう指摘しています。
Those individuals whose L2 exposure is primarily a learning type of experience tend not to develop the same kind of general proficiency as those who have had more of an acquisition type of experience. 第二言語に触れた経験がもっぱら言語学習に属するタイプのものである人は、言語獲得に属するタイプの経験の方が多いという人が到達する一般的運用能力と同等の域にまで到らない傾向が強い。
そもそも、コミュニケーション能力をつけるためのクラスでは、質問しあって情報の共有を図ることやインターラクションと並んで互いに確かめあって、言っていることの意味を確定するという作業 (negotiation)が不可欠なのに、IRFアプローチの場合、学生の答えはおまけでしかなく、実質的に教師の独演でしかありませんから、こういった意味を確定するためのやり取りなど最初から想定されていません。
一方、クラスの全員が声をそろえて答えを言ったり、教師の指定した文を復唱するコーラシングにつき前記論文の Arthur and Martinは、学習者がみずから英語で何か言うという能力が限られているのに、あたかも整然とした英語でのやり取りが行われているかのような見せかけを作り出しているに過ぎないと指摘しています。実際、口パクでごまかしている不心得者はいくらでもいるでしょうし、個別に言わせたら、通じないような、ひどい英語ということだってあるでしょう。(南アフリカでの英語教育を研究した Chick に至っては無難 (safe) な授業運営だということで、こうしたやり取りを safe-talk と命名しているぐらいです)
ところで、もうひとつ、日本での英語教育との対比上、Arthur and Martin の論文がおもしろかったのは、書き言葉的英語が教室で幅を利かせているという事実です。例えば理科の授業はこんな感じでフルセンテンスでの応答となっています。(日本語でもそうですが、実際の会話はリアルタイムで進みますから悠長にフルセンテンスを組み立てている時間はないのが普通です)
教師:Now, what do we have in the bottle?
学生:We have water in the bottle.
教師:Good. what do we use water for?
学生:We use water for cooking.
これは日本とそっくりです。例えば、高校の英語教員から頂戴したオーラルコミュニケーションをぱっと開くと、こんな会話が目に飛び込んできます。
A: I'm amazed to see such a variety of people in this country.
B: You're right. Some people call American society "a salad bowl."
しかも、ボツワナの先生たちはフォーマルな英語が好きなようで、Arthur は、この問題を、こうしめくくっています。
Indeed the predominance of full sentences, frequency of non-contracted auxiliary verb forms and at times stilted lexical choices which were all observed resulted in an impression of 'written language spoken aloud'. 実際、すべて観察において確かめられているところだが、フルセンテンスがほとんどだということ、助動詞の省略形が使われないということ、それに時として古くさい言い回しを使うことから、「書き言葉が読み上げられている」ような印象を与える結果を招いている。
結局、いくら授業運営を英語でやっても、グループワークで会話を作って経験してみるなどの学生中心のアプローチによらず、教師が主導するようなスタイルを取っているようでは、しゃべっているのは教師ばかりで、学生が英語を口にするのはおまけ程度で終わってしまいます。しかし,これでは,当然のことながら、ちっとも学生のメリットになりません。また、話し言葉は書き言葉の音声化したものだとか、文法や単語をきちんとやれば話せるようになるという勘違いを直さないと教室で書き言葉的なフルセンテンスを乱発し、ちっともコミュニケーション能力の育成に寄与しない結果をまねきます。
ボツワナの例がわれわれに教えてくれるのは、コミュニカティブな英語とは何かをきちんと位置づけず、やみくもに英語で授業を進めるようでは、英語に触れているのは教師の方ばかりで学生が英語に触れる機会を増やすことにはならず、また内容的にも英語でのコミュニケーションに役立つことがないということです。しかし、これでは、「生徒が英語に触れる機会を充実するとともに,授業を実際のコミュニケーションの場面とするため」に英語での授業を行うのだという制度の趣旨が没却されてしまいます。
それにしても、ボツワナでの英語の授業、IRFアプローチと言い、書き言葉偏重の姿勢と言い、日本と似すぎていて、こわくなります。以前、日本の学校英語が100年前のインドと変わらないという記事(時を超越する駄目教育)を書き、また、わが国の教科書の会話例が1906年当時のヨーロッパの教科書と大差ないという記事(教科書の会話は「ガラパゴス英会話」)を書いたことがあるだけに、時間と空間を超えて前近代性を保っているわが国の英語教育は、誰かが陰で糸をあやつり、実質的に鎖国体制を敷いているのではないかと陰謀論に傾きたくもなります。
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Genieの例をウィキペディアで読みました。不謹慎ですが、興味深く感じました。この例から、どことなくGenieさんの件は、「学校教育で英語の話し言葉にほとんど触れずに成人になった」場合と似ているのではないかと、思いました。そして、この前の野口悠紀雄氏の「話し言葉≒不正確な(間違っている)言葉」という発想も、そこから来ているのかもしれないとふと思いました。
http://www.eigotown.com/culture/interview/noguchi/interview_p1.shtml
>>一定の時期に脳内の回路を整備する必要はある
そう思います。私の文章力が貧しくて、上手く表現できなかったのですが、私が言いたかったこととしては、「段階を踏んだ学習」ということで、具体的に、例えば、
過去完了形と過去分詞を教える場合
1.過去完了形を先に教える方が、生徒の理解が早い。
2.過去分詞を先に教える方が、生徒の習得が早い。
3.上記どちらの方法でもなく、文法の教え方を根本的に見直すべき。
といったことで、果たして、現在の○年生にはこれを教えるといった順序、そのやり方が学習の阻害にならないか、こういったことは、既に分析済みで何か学問として体系化してはいないのか、ということをお聞きしたかったのです。質問攻めみたいになってすみませんが、何か引っかかりを頂けたら嬉しいです。
[返信]
Genieのケースは、言語能力が形成される時期が空白だったため外国語どころか母語すら獲得できなかったという希有の例ですが、他面、引きこもりの1/3が精神障害を持っているという最近の発表からもうかがわれるとおり、そもそも精神的、心的な障害があったがゆえに言語が発達しなかったのではないかと見る向きもあり、あの一例だけからは何とも言えません(同様の例で、Chelseaというケースも有名です)
ところで、教える側が考える学習すべき順番と実際の習得の順序に違いがあることについては実証研究があるので、ブログネタにさせていただきます。明日ぐらいにはと思っています。少々、お待ちください。
- ともちゃん
- 2010年6月 1日 22:54
>>誰かが陰で糸をあやつり、実質的に鎖国体制を敷いているのではないかと陰謀論に傾きたくもなります。
またまた本の話で恐縮ですが、「カムカム英語」を最近読みまして、陰謀論というよりも、まぁ、失礼ですが、「教育の学問体系がしっかりしていないのでは」と思った次第です。すなわち、未就学児から高等教育機関まで、段階を踏んだ学習というものが逆に適切な言語発達を阻害するという事なのですが、いかがでしょうか?
[返信]
外国語の習得に失敗した人はいくらでもいるのに、母語を習得しそこねた人はいないわけで、幼児期の言語体験は重要な意味合いがあると思います。また、13歳まで異常な父親の虐待により言語に触れることなく育ったというGenie という有名な例では、とうとうきちんと英語を話すことがなかったと言いますから、一定の時期に脳内の回路を整備するの必要はあるのでしょう。
- ともちゃん
- 2010年5月31日 20:20
”身体知”なるほど納得です。長年同時通訳を教えていますが、同通初心者には頭で知識として覚えるのではなく、体に英語を染み込ませるよう指導しています。
(ちなみに初心者といってもTOEIC950は超えている人ばかりです)
今まで教えた生徒さんの中には当然英語教師の方もいらっしゃいますが、殆どの方が挫折します。最大の理由は英語力云々の前に一般常識に乏しい方が多い。例えば米国の共和党と民主党の一般的、かつ原則的な違いを知らなかったり、マクロ、ミクロの経済的な知識を全く持っていない先生が多いです。通訳学校に通われる方は意識の高い先生なのでしょうが、英字新聞すら読めない人が多いのが現実です。
[返信]
コメントありがとうございます。英語教師の方にもっと頑張ってもらわなければならないのに、これじゃ先が思いやられますね。高校での「英語で授業」、一体どうなるものやらですね。
- 中年通訳
- 2010年5月31日 10:08
ご紹介いただいた論文を読みました。簡潔に言ってしまえば、「文字言語の音声化は無意味」「1文ずつの会話なんてありえない」という論評になりますね。
英語を習い始めてから数年しかたっていない高校生から見れば、退屈極まりない授業なのではないでしょうか。真面目に授業を聞いていても役に立たない、と高校生なら判断できるかと思います。
国際社会での日本の立場は凋落し、韓国や中国に抜かれること間違いないでしょう。そもそも、教育関係の公務員やら審議会の委員が、何のための英語学習か、日本の発展のためにどのような取り組めば良いのかが、わかっていないのですから(彼らが、「目を開いている。殿様に何を申すぞ。」と言っているから、余計にたちが悪いのですが)。
[返信]
方法論は別として基本的姿勢として、英語の姿をそのまま受入れ、吸収した明治時代の方がよほどマシだったと感じます。富国強兵、入欧脱亜など、善し悪しはともかく、結局はどういう価値を追求するのというところで腰が定まっていないと英語学習はもとよりすべての面でおかしなことになってしまうのでしょう。
- めいけんとパパ
- 2010年5月28日 16:41
高校で使用されている、英語コミュニケーションのテキストを見たことがないのですが、今度、参考書を本屋で見てみます。受験対策でも使われるのでしょうから。
ところで、私だったら、授業中にこんなことを言って教師をおちょくりたいです。
教師:Now, what do we have in the bottle?
学生:We have toluene in the bottle.
教師:Good. what do we use toluene for?
学生:We use toluene for bombing.
[返信]
コミュニケーションの参考書、どうなんでしょうね。書店にあるでしょうか。ちょっと前の教科書を対象にした以下の論文をご覧になると、内容がある程度わかるかと思います。
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN10491493/HiroshimaJSchEduc_2_69.pdf
オーラルコミュニケーションは受験ではリスニングで問われる程度で、実際問題、応答ができるかはテストしにくいわけで、そこから、高校の教師もオーラルの授業はALTに任せっきりにし、自分たちは受験文法やら読解に専念しているという話を聞きます。
- めいけんとパパ
- 2010年5月28日 08:46
ボツアナのことは知りませんが、ガーナとはなにかと縁があり、あちらの学校の様子については数人から話を聞いたことがあります。どちらも元英領なので共通点があるように思いました。英語教育の話題からはずれてしまうのですが…。
日向さんはご存知かもしれませんが、ガーナの富裕層の子息は、全て英語で教える全寮制の高校に送られるのが普通だそうです。つまりイギリスboarding schoolのガーナ版です。私の友人はガーナ出身ですが、幼少のころからNY市に住んでいて、自由な雰囲気の学校に慣れきっていました。でも、彼の母親に「おまえはアメリカ人になり過ぎた!」と言われ、突然、ガーナの全寮制高校に送られてしまったそうです。そのため、彼は、慣れるのにはものすごく苦労したと言っていました。校風はかなり堅苦しく、先生の言うこが納得できずに「Why?」を連発したため、ものすごく嫌がられたとか・・・。
一般的なガーナ人のおおらかなイメージとはギャップがあるので、この話を聞いたときにはおもしろいと思いました。
[返信]
おもしろいお話、ありがとうございます。イギリス英語族のアメリカ英語嫌いには強烈なものがありますね。子供の頃、アメリカンスクールで身につけたアメリカ英語を母親がひどく嫌がり、「矯正」のため、一種の塾に行かされたことがあります。
あと、どの国もそうですが、一般の人とエリート層というのはメンタリティーが全然違っていますよね。ガーナのお話をうかがって、ハーローなどを経てオックスブリッジに子供を行かせるのを当然と思っているインドのエリートたちを思い出しました。
- Yumi
- 2010年5月28日 06:43
いつも丁寧なお返事ありがとうございます。
>わが国の英語教育は、誰かが陰で糸をあやつり、
>実質的に鎖国体制を敷いているのではないかと
>陰謀論に傾きたくもなります。
これは私もあるんじゃないかと思いますね。一般の消費者が英語がすらすら読めるようになったら、価格の内外格差等が明らかになり、日本製品が売れなくなってしまうでしょう。国内産業を保護するには、英語を普及させない方が得策かもしれません。
同じ島国のイギリスでも事情は同じらしく、イギリス人は外国語が分からないので、ヨーロッパ大陸の安くてよいものを買うことができないそうです。ユーロを導入しない国民性も、日本の閉鎖性に通じるものがあるかもしれません。
意識的に陰謀を敷いている人がいるかどうかはともかく、無意識にその方向に政策が向かっているというのはありえる話です。日本文化とグローバリゼーションの間には、容易に埋まらない大きな溝があると思います。
[返信]
無意識というのが嫌ですね。特に税金を使っている教育関係の公務員やら審議会の委員には目を開いて働いてほしいものです。
- SK
- 2010年5月27日 16:19

ありがとうございます。楽しみにしています。
ちなみに、現在の学習指導要領がそういった実証研究に基づいて作成されているかどうかと、研究と指導要領のつながり(例えば、教科書だと、教科書作成から実際に使用されるまでの過程がありますが、そういったようなもの。)も合わせていただけたらありがたいです。