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日向清人のビジネス英語雑記帳:スペースアルク
 

2010年6月10日

学習者本位 vs 教師本位

文法訳読法に代表されるような英語の知識を教師から「学習者」に伝授しようという発想を脱して、身をもって英語の使い方を知り、英語の「ユーザー」を育てようというコミュニカティブ英語の世界では、当然、教え方も教師本位 (teacher-centered) から学習者本位 (learner-centered) へと転換することが求められます。

この違いは、自動車教習所の先生と生徒の関係を考えるとわかります。教習所の目的は身をもって運転の仕方をおぼえてもらって、「運転技術のユーザー」ないし「運転できる人」を育成しようというものですから、知識を伝授すべく自動車の構造や運転技術の説明ばかりしていてもしょうがないわけで、自動車運転技術のユーザーとなれるよう、つまり、生徒がみずから運転できるよう、教習所内で、あるいは、路上で実地に運転技術を試してもらい、反復練習してもらうことになります。これが学習者本位ということの意味です。

ところが、わが国の英語の先生は教壇から知識としての英語を解説するスタイルに慣れ切っており、なかなか学習者本位へと切り換えられないでいます。また、実際に教えている方々の話を聞いていて感じるのは、学習者本位の意味を誤解し、無用の警戒心を抱く結果、学習者本位がどうのとややこしいオーラル・コミュニケーション(平成25年度から「コミュニケーション英語」という呼び方になるようです)は外人アシスタントに任せきりというケースが多いことです。

逆に TEFL (外国語としての英語教授法)で修士を取ったばかりで、張り切りすぎている外人の若者が、学習者本位を勘違いして,授業の初日に「みなさん、何を、どう、やりたいですか」と、学習者本位のアプローチの下でも、なおかつ教師の役割であるコンテンツ制作と授業運営を相手に丸投げして受講生を困惑させたりします。当然、こういう教師は自業自得で、授業アンケートですさまじい批判を浴びます。(当然、教師の方は、「学習者本位がまるでわかっていないくせに」と怒り心頭となります)

こういう混乱は「学習者本位」を「学習者任せ」と勘違いしていることから生じているようです。

まず「教師本位」と「学習者本位」はどこが、どう違うのかをざっと見ておきます。(出所はHuba, M. E. and Freed, J. E. (2000). Learner-Centered Assessment on College Campuses -- Shifting the Focus from Teaching to Learning. Boston: Allyn and Bacon.)

教師本位型では、知識は教師から学生へと伝授されるものとされる。学習者本位のアプローチでは、知識は学習者自身の主体的努力により自分の中で徐々に形成されるものとされる。

教師本位のアプローチでは、学習者は受動的に情報を受け取るに留まるのに、学習本位のアプローチでは、学習者本人が積極的に情報の収集、取得に動く。

教師本位のアプローチでは、コンテクストから切り離された知識が取り上げられるが、学習者本位のアプローチの下では、知識は実際問題との兼ね合いの中で取り上げられ、問題解決に供される。

教師本位の制度では、教師は、情報の提供者であると同時に学習者の評価をするが、学習者本位のアプローチでは、教師の役どころは、コーチないしファシリテーターであり、学習成果があがったかの評価も教師と学習者がいっしょになって考える。

教師本位のアプローチでは、教えることとテストすることが切り離されて行われるが、学習者本位のアプローチでは、教えることとテストすることが不即不離の関係にある。

教師本位のアプローチでは、テストするのは学習進度ないし到達度を測るためだが、学習者本位のアプローチでは、学習を促し、かつ、問題点を発見するためにテストが行われる。また、前者では正答かどうかが問われるのに対して、後者では、よりよい解答があるのではないか、間違いを正して前進することにウェイトが置かれる。

教師本位のアプローチでは成果があがっているかは、客観的な点数が出るテストで間接的に測定されるが、学習者本位のアプローチでは、レポート、プロジェクト、実際のパフォーマンス等を直接測定する。

教師本位のアプローチでは、英語なら英語というふうに単一の領域に集中するが、学習者本位のアプローチでは、英語と並行して別の科目をも取り込むことができる。

教師本位の世界でのカルチャーは、学習者を個別に捉え、相互に競争させようとするが、学習者本位の世界は、互いに協力し、支え合うことが第一義だ。

教師本位の世界での学習者は学生のみだが、学習者本位の世界では、教師も学習者もともに学んでいる者と位置づけられる。

こういうふうに対比すると、明らかに学習者の方にイニシアティブが移っているかのようで、学校の先生たちが不安に思うのもごもっともです。

なるほど、学習内容におけるイニシアティブ、つまり、誰が、誰に対して、どういった内容のことを、どのように、またどのタイミングで言うのかというコンテンツ形成は学習者に委ねられます。例えば、グループに分けた上、一定のフレーズ集を与えて会話例を作ってもらうという作業を考えた場合、学習たちはどういうった内容の会話例を作るのかにつき、裁量権があるわけで、その意味でイニシアティブを発揮する一種の仮想学習空間を与えられています。

しかし、何人ずつのグループにするのか、制限時間はどのぐらいか、また個々の産出物(例えば会話例)に対してどういうフィードバックを与えるかという授業運営をコントロールする力はどこまでも教師のものです。

その意味で、学習者本位のアプローチだからと言って、教師本位の側面があることまで否定されるわけではありません。現場の先生たちは、学習者に委ねられるイニシアティブと教師が行使すべき授業運営上の「管理権限」をいっしょにしてしまい、何もかも学習者任せにすることが「学習者本位」だと勘違いして、こわがっているというのが私の理解です。(このあたりを詳しく知りたい先生がいらっしゃるとすれば、Stevick, Earl W. (1980). Teaching languages: a way and ways. Rowley, Massachusetts: Newbury House Publishers.がお勧めです)

一方、冒頭で紹介した修士取立ての先生のように、何もかも学習者に丸投げしてしまうのは、学習者に不安感を与えてしまいます。学習上のイニシアティブを発揮する一種の仮想学習空間が与えられるのはいいとして、それがあまりに広すぎて曖昧なようでは、学習者にしてみれば、何のための教師なんだということになってしまうからです。

世の中、コミュニカティブ英語=学習本位のアプローチという理解が普及はしていても、意外とその中身まで考えて学習本位のアプローチが教室の現場では何を意味するのかまで確かめている人は少ないようで、そういった人がむやみにコミュニカティブ英語をおそれたりしています。そうかと思うと、学習者本位だから全部学習者が決めるんだと拡大解釈して、学習というプロセスを台無しにしてしまうケースもあります。Huba と Freed の比較対照のように観念的には、えらくきれいに仕分けできるものの、教室の現場での扱いとなると、きちんとイニシアティブとコントロールの違いがわかっていないと混乱するばかりというのが実情のようです。

なお平成25年度(2013)から、「生徒が英語に触れる機会を充実し、授業を実際のコミュニケーションの場とするため」高校では可能な限り英語で授業をせよという文科省のお達しが出ていますが、いくら英語で授業をしていても、教師本位である限り、まさに形だけ整える結果に終わり、コミュニケーションにはなりえません。例えば、教師が Taro, ask Hanako what she is wearing? と指示し、これを受けて Taro が Hanako, what are you wearing? と尋ね、Hanako が I'm wearing a dress. とやり、ついで、Hanako, ask Junko what she is wearing. と進めるスタイルはなるほど「英語で」授業という体裁は取っていますが、ちっとも「コミュニケーションの場」ではありません。

「コミュニケーションの場」だと言えるためには、第一に、センテンス単位の発言を超えた、複数のセンテンスを総合してのやり取りである必要があります。第二に、コミュニケーションの特質は、当事者間に情報格差があり、会話の結果としてそれが埋まるという効用がなければなりませんから、最初から答えがわかっているような会話は無意味です。第三に、本当のコミュニケーションは予測不能であり、当事者は常に臨機応変に目前の展開に対応していくことが要求されるわけであり、上の What are you wearing? などと尋ねるのは実生活ではあり得ない茶番です。第四に、コミュニケーションでは、当事者は何かものを尋ねて答えを引き出すといったプロセスの中で交わされるやり取りについて、不確定的な言葉につき、擦り合わせを経て意味を確定していくわけであり、およそ擦り合わせを要しないやり取りなどは、練習になりません。最後に、コミュニケーションは常にリアルタイムで進められるわけで、一定の段取りでゆっくり進むお芝居のようなやり取りは、これまた意味がありません。

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Comments

>>南山短期大学教授 近江 誠氏

日本人の東大崇拝が続く限り、この方が東大の肩書きを持って著書を出さないといくら非凡な才能を発揮されて活動されても、自分の教え子が何人東大に入ったかを気にするような教師は全く手に取ろうしない気がします。

現に、父親が高校の英語教師をしていた私の昔の知人は、父親の影響なのか知りませんが、書物を取る度に著者の肩書き欄の学歴をみては書物を判断していました。

[返信]

そうかも知れませんね。一方、英文法をしっかりやっておけば高度の運用能力はあとからついてくると、とんちんかんなことをおっしゃていたご仁も東大教授であることを考えると、駄目権威に盲従するのはひどく危険なことだと思います。

オーラルコミュニケーションという言葉が密着し始めて、約15年たちますが、日本の学校における英語教育の悪しき現状は当初と全く変わっていないようですね。むしろ悪化しているのではないかと感じます。まさに、南山短期大学教授 近江 誠氏が指摘している通りです。氏は、数ある著書の中で、現場の英語教師や学校の英語に対する浅はかな考え方や方法論にいたるまで容赦なくたたき斬っています。このコラムに書かれていることよりも数倍きつく、おそらく現場の教師にとっては耳が痛くなることでしょう。氏は、アメリカ大学院に4年間留学していますが、それまでは、高校の英語教師だったそうです。帰国後は、大学にて教鞭をとられる一方で、高校の教室にも積極的に参加し、生徒に英語を教え続けています。スピーチ・オーラルインタープリテェーションを活用した入出力方法を主体とした教授方法で、英語力の向上にかなりの成果が出ているそうです。

尚、コミュニケカティブ英語に関しては、方法論(クラッシェン式出力)における問題として、入力に結びつかない出力活動が多すぎることをあげており、「コミュニケイショナルアプローチ」(スピーチコミュニケーションからの方法論)が最も望ましい方法と説いています。 「英語コミュニケーションの理論と実際 スピーチ学からの提言の詳細」(研究社出版、1996)にほぼ全てのことが網羅されています。

[返信]

ありがとうございます。

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