2010年8月 5日
大津先生と松本先生の紙上バトル:これでいいのだ 学校英語
8月4日付の朝日の朝刊、一面まるまる取った「オピニオン これでいいのだ 学校英語」という欄で、立教の松本茂先生と慶應の大津由紀雄先生が「文科省が進めているように、英語で教えれば、今度こそ英語が身につくのか」という問題につき、松本先生は、「英語で表現してこそ身につく」と肯定し、大津先生は「文法・解釈・作文が能力を築く」という立場から否定しています。
はやい話が、この紙上対決、structure vs use ということです。
外国語を学習する場合、何を対象に勉強すべきかという問題については、昔から、structure(作り、仕組み)と use (実際の使われ方)が取り上げられてきており、一時は、今回の大津先生の師匠に当たるチョムスキーのように performance(言葉の実際の表れ方)よりcompetence(言葉を操る基本的能力)に目を向ける流儀がはやったものの、今は、competence も大事だけれど、performanceも大事だよね、つまり、structure だけでなく、use も大事だよねというコミュニカティブな言語教育が主流になっています。
こうした見地から言えば、受験英語のせいで訳読法中心に傾いていたわが国の英語教育に対する反省から、松本先生は use を強調し、これに対して、大津先生は師匠の影響もあってか、やたらと英語という言語の根底にある仕組みを強調しているというのが今回の「対決」の構図です。
しかし、結局は、仕組みもさることながら、使われ方も等しく重要なわけで、実際、コミュニカティブな言語教育のあり方を解明した、Canale と Swainは、彼らを有名にした論文、Theoretical Bases of Communicative Approaches to Second Language Teaching and Testing の中でこう明言しています。
Communicative competence is composed minimally of grammatical competence, sociolinguistic competence, and communication strategies, or what we refer to as strategic competence. There is no theoretical or empirical motivation for the view that grammatical competence is any more or less crucial to successful communication than is sociolinguistic competence or strategic competence. The primary goal of a communicative approach must be to facilitate the integration of these types of knowledge for the learner, an outcome that is not likely to result from overemphasis on one form of competence over the others throughout a second language programme. コミュニケーション能力を構成する最小限の要素は、文法能力、社会言語能力、そしてコミュニケーション・ストラテジーすなわちわれわれが言う方略的能力である。コミュニケーションをうまく行なう上で、文法能力が社会言語能力や方略的能力と比べて一段と重要だとか、一段重要性が劣るとする立場を裏づけるに足る理論的根拠もないし、経験則もない。コミュニカケーションを重視するアプローチにおける主眼は、ここに挙げた能力を学習者が総合的に身につくようにしてやることであるが、外国語学習のためのプログラムにおいて、他の能力との比較でひとつの能力を過度に強調するようでは、こうした狙いも実現しにくくなる。
[補足:文中のsociolinguistic competence(社会言語能力)とは、Open the window, please. などのように英語が実際に使われる場面でのルールに照らし、失礼な言い方を避け、Could you open the window, please? と社会生活における妥当な言葉遣いをこなす能力を指し、strategic competence(方略的能力)は、聞き取れなかったときに聞き返したり、通じてないなと感じたときに言い直すといった、コミュニケーション・プロセスのメンテをこなす能力を指します。文法能力が structure に関する能力なら、社会言語能力と方略的能力は use に関する能力と言えます]
してみると、松本先生と言い,大津先生と言い、Canale と Swain が言うところの "overemphasis on one form of competence over the others" (他の能力との比較でひとつの能力を過度に強調すること)にかまけていると言わざるを得ません。
ところで、大津先生の議論の進め方で「あれっ」と思ったのは、いつのまにか英語教育イコール書き言葉の教育になってしまうことです。
まず、「外国語が使えるようになるには、その言語の仕組みが頭に中にちゃんと備わらないといけません」と説きます。上のCanale & Swainが説く文法能力のことであり、ごもっともです。
続けて「それには二つの道があります」とし、その言葉が使われている環境の中で自然に「獲得」するか、意図的に「学習」するかだとした上で、日本語で言う「本を読む」は英語だと read a book になるということを例に挙げ、日本語と英語とはこれほど違うのだから中学段階でしっかり定着させないといけません、と強調されます。これまたごもっともです。
わからないのはこの先です。
いきなり、「そこで必要になってくるのが英文法、英文解釈、英作文の「3点セット」です。せっかく日本語という母語があるのだから、英語の文法や構文といった仕組み、解釈の仕方、英語への訳し方について、日本語で教えた方が生徒には伝わるし、効率もいい」と続きます。
たしかに日本は英語環境ではありませんから、「学習」によって意図的に言葉の仕組みや使い方を学ぶ必要がありますが、だからと言って、いきなり「そこで」、つまり「そういうわけで」という意味の接続詞を使って英文法、英文解釈、英作文の必要性を言うのは論理の飛躍です。英語環境にない日本での英語の勉強は意図的な学習によるほかなく、また、英語が日本語と異なる作りを持っている以上、なおのこと意図的な学習の重要性も強調されてしかるべきですが、そのことと、英文法、英文解釈、英作文を三つセットで学習することとの間に一体どういう論理的関係があるというのでしょう。
特に、英文法を学ぶ必要はともかく、なぜ英文解釈、英作文といった書き言葉を学ぶ必要性に話がつながっていくのか不思議です。英文法を学んだら、次は英会話だねと言ってもおかしくないはずです。
特に英文法の限界を考えるとますます疑問です。英文法を強調する人たちが見落としていることに、そもそも英文法自体、ラテン語文法の形式を借りて無理矢理英語の使い方を整理したシロモノでしかないがために、18世紀の遺物と言える英文法では説明の付かない言葉の用法がたくさんあるという事実があります。言ってみれば、structure ばかり強調していると、use の現実に追いつかない部分が多々あるわけで、そういったことをすっとばして英語教育を論じるのはどうかと思われます。
例えば、最もよく使われる英単語のベスト30には、yeah, mm, er, oh といった単語が並んでいますが、旧来の英文法ではこういった単語を文法上区分しようにも行き詰まります、つまり品詞分類に窮します。形容詞も同じで、great, fine, excellent といったコミュニケーションに不可欠な「形容詞」は、最初から形容の対象となる名詞や代名詞がありません。特に you know, right, anyway といったコミュニケーションに際しての自分の発言を流れの中で位置づけ、コントロールするためのツールであるディスコース・マーカーなどは、既存の英文法では捉え切れず、辞書によっては、function words といった新たな区分を立てているぐらいです。
してみると、わが国の場合、英語環境でない以上、意図的に英語を勉強する他なく、その際、英語の仕組みの理解から始めるのはいいとして、書き言葉よりは話し言葉に軸足を置いて仕組みの理解に努め、さらに実際の使い方まで練習した方がいいという主張だって成り立ちます。そういう見方もありうるとなれば、英語は意図的に学習する必要がある、「そこで」英文法、英文解釈、英作文の「3点セット」が必要だと説くのは強引に過ぎるというものでしょう。
わたしに言わせれば、結局、Canale と Swain の説くとおり、文法に加えて、社会で実際に言葉がどう使われているかを見る社会言語能力ならびにコミュニケーションが支障なく行なわれるようにする技術である、方略的能力をバランスよくはぐくむべきであり、ひとり文法だけを抜き出して格別重要だと強調する合理的理由が見当たりません。
この点、アメリカの応用言語学の研究機関である NCLRCは、The Essentials of Language Teaching というウェブページで、この三つの能力を兼ね備えた理想的学習者像を、以下のようなものとして描いており、なるほど、そうだよねと納得させられます。
They should try to avoid confusion in the message (due to faulty pronunciation, grammar, or vocabulary); to avoid offending communication partners (due to socially inappropriate style); and to use strategies for recognizing and managing communication breakdowns. 学習者たるもの、以下のことを心がけるべきだ。(発音、文法、語彙のまずさのゆえに)伝えたい内容に混乱が生じないようすること、(社会言語生活上のルールに違反して)相手に不愉快な思いさせないようにすること、コミュニケーションに支障が出た場合に、それを察知し、対処するための手だてを講ずること。
英文法、英文解釈、英作文ばかりに力を入れると、常にセンテンス単位で英語を捉えるようになってしまいます。しかし、コミュニケーションの実際は、センテンスを超えた単位での言葉の処理がものを言う訳で、書き言葉ばかりやっていると、プレゼンの質疑応答でまともな質問ひとつできず恥を書いたりします。あるいは、口頭の発表といった場面で、moreover, therefore といった生硬な書き言葉を使い、相手に違和感を与えたりすることにもなります。やはり公教育ではやさしく、実用的な話し言葉を中心に学び、大学にはいってから、かっちりしたフォーマルな英語を上乗せしたらいいというのがわたしの考えです。
他面、教室運営を英語にすればいいというものではありません。せっかく英語で授業をしても、教師中心で、教師ばかりが英語を話すというのでは現状と変わりませんし、そういった授業の内容が大津先生流に英文法、英文解釈、英作文に軸足を置いたものとなれば、いつかボツワナの英語教育で取り上げたとおり、Indeed the predominance of full sentences, frequency of non-contracted auxiliary verb forms and at times stilted lexical choices... resulted in an impression of 'written language spoken aloud'. ( 実際、フルセンテンスがほとんどだということ、助動詞の省略形が使われないということ、それに時として古くさい言い回しを使うことから、書き言葉が読み上げられているかのような印象を受ける)英語を教える結果を招くことでしょう。
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30年前に習った英語の先生は英文法と英文解釈はできましたが発音めちゃくちゃでアメリカ人に通じませんでした。今ね時代これではダメですよね。
[返信]
30年前でさえ、その程度だったわけで、戦前ともなれば、もっと本物の英語とは縁遠かったことは想像に難くありません。そして、だからこそ、実際に通用する英語とは無縁の英文解釈という日本独特のあだ花が咲いたのだと解されます。
- 英語学習者
- 2010年8月15日 16:20
>>なんか国民性として英語と相性が悪いんでしょうか。まさかねえ。
いや、問題は先生と呼べないような知識の人が教壇に立っているからではないのでしょうか?
斉藤兆史先生は、「英語の基本」(放送大学)の授業を見る限り、日本語でも英語でも英文法の本をかなり読んでいる感じを受けます。一方、mixiの英語関連コミュをのぞくと、ほとんどの方が日本語で書かれている英文法を参考にしているだけの印象を受けます。
まぁ、あと私のようなひよっこの学習者が先生を感覚で選別してしまうことも原因の一つですかねぇ?
[返信]
たしかに日本語の英文法書は、ケンブリッジやオックフォードが出している文法書と比べて、何と言うか独特の作りになっていますね。ガラパゴスにはガラパゴス向きの文法書の方が受入れられやすいのでしょうか。
- ともちゃん
- 2010年8月11日 21:14
大津先生のブログを見ますと昨今は文法をきちんと教えないと書かれてありましたが本当にそうなんでしょうか。外国人でその国の文法を熟知せずにその外国語を操れる人はいないはずですが。
[返信]
どうなんでしょうね。私の知っている私立大の付属校は練習帳を含め、やたらと「フォレスト」をやらせており、度が過ぎると感じているのですが、そういったケースを含め、まだ足りないという感じを持っているのかも知れません。
- 英語使用者
- 2010年8月11日 00:19
>松本先生と言い,大津先生と言い、Canale と Swain が言うところの "overemphasis on one form of competence over the others" (他の能力との比較でひとつの能力を過度に強調すること)にかまけていると言わざるを得ません。
朝日新聞の記事のとおり、二人が座談会に出て、意見を述べているのであれば、余計そのように感じることと思います。ただ、紙上対決というのは、明らかにメディアの作り出した表現で、実際にこの二人が対決しているというわけではないような気がします。
(記事を読んでいないのでわかりませんが。)私、個人の意見は、「どちらにも一長一短があり、どちらも欠かせない」です。言い換えれば、どちらに固執しても無意味ということになります。
それにしても、メディアといい、なぜこうまで二極化して対立思考を作り出すことに夢中なのか、不思議に感じてなりません。
[返信]
コメントありがとうございます。朝日の記事は実際には対談ではなく、編集者がそれぞれの言い分を聞いてまとめた上、紙上対決形式で並べて掲載しているだけです。ですから、実際の対談なら相手の前提や現状認識を引き出し、すり合わせを図ろうとするのに、それがないため、何か空疎な響きがします。
ただ、シンポなどでの学者の意見を聞いていると、相手の言い分を聞いた上で、その言い分との関係で自分の立ち位置を説明することがなく,それぞれが演説を続けていることが多く、しかも、そういう人たちがコミュニケーションを論じるのですから不思議です。二項対立的な発想は実は研究者たちも同じなのかも知れません。
- 海外留学生
- 2010年8月10日 06:10
様々な観点の意見が出ているはずですのに,こちらの記事を書かれた方の意見を支持するものだけを載せるのは、あなたがメディアコントロールしていることだと思います。そうだとすれば,それは間違っていると思います。
[返信]
お説承りました。ありがとうございます。
- 大津ファン
- 2010年8月 8日 11:25
すでに,現場は,performance(言葉の実際の表れ方)ばかりに力を置かれすぎで,文法や解釈など日本語の助けなしに外国語である英語を学べさせようとて,生徒たちに自己努力のみを要求しているようになって混乱しているから,大津先生が擁護しているのだと私は感じてます。英語教師自身が,英語がEFLなのかESLなのかも混同され,コミュニケーションの定義もめちゃくちゃで,すでに認識済みの先生方や生徒達が大変混乱しているから大津先生が述べているんですよ。私は少なくとも大津先生の言われることを支持します。しゃべれないのに,分からないのに,書けないのに「やれ」というのは,あまりにも無慈悲すぎます。日向さん自身が英語でこの議論が出来ないのにです。私個人はこのように堂々と本質を曲げて書かれるので,アルクは嫌いです。
[返信]
猛暑のせいもあるのでしょうが、何をおっしゃりたいのかよくわかりません。なお、
このブログの左側にきちんと「このブログは日向清人がアルクサイト上の場所を使って提供しているものであり、アルクサイトに寄稿しているという性質のものではありません」と説明してあるのを今いちどお読みください。気に入らない記事がアルクのサイトにあるからと嫌うのは勝手ですが、気に入らない人が本州に住んでいるから本州が嫌いだと言っているようなもので、お相手する気力も失せます。
- ある英語学習者より
- 2010年8月 8日 11:22
上の方と関連して。もし論争するのなら先生方に英文にて主張を展開して頂きたい。そうすればその英文を読めば生の英文かどうかがわかりますし、おのずとどちらに軍配が上がるかはわかるでしょう。論より証拠!
[返信]
一瞬、そりゃそうだと思ったものの、英語で書くとなると英語の論法になるので、新聞の一般読者にはわかりにくいようにも思えます。むずかしい問題です。意外と。
- 英語評論家
- 2010年8月 7日 17:16
>>あるべき姿としては、口頭によるコミュニケーションにもっと目を向けないと国際化のための英語とは矛盾する方向に行ってしまうわけで、そのことはやはり強調し続ける必要を感じます。
全くそう思います。
外国人の日本研究者の話で、その研究者の国では室町時代の日本語が教えられており、実際に日本に行ったことのある人間と、学校の間で微妙な対立があるようなことを、『対論「日本探究」―外国人の日本研究』 梅棹 忠夫著の中で、読んだ覚えがあります。これが自国内だけでの問題であればそんなに問題はないかと思われますが、日本人に置き換えて考えると結構悲惨な構図が生まれるということに気がつきます。
英語はそんなに時間の経過と共に激しく変化する言語ではないかもしれませんが、例えば、第二次世界大戦中に使われていたようなちょっと古めかしい英語を使う日本人に英米人が出会ったとします。そうすると、印象としては、まだ第二次世界大戦をおこすような、そんな気を起こしてしまうのではないでしょうか?最近、英米仏の方が原爆式典にいらっしゃいましたが、せっかく「平和」をアピールしても、英語がおかしくてはヘンな誤解が生じるのではないでしょうか?
これは国際化の中で、いかに誤解を生じないで物事を伝えることができるかという、いやむしろ、国際化というよりも、コミュニケーションの原点だと思いますが・・・。
[返信]
たしかに終戦時のおことばを英語に訳したような英語ってありますよね。それにおっしゃる「悲惨な構図」、なんだか気落ちします。なんか国民性として英語と相性が悪いんでしょうか。まさかねえ。
- ともちゃん
- 2010年8月 7日 12:36
あくまで私見ですが、日本人は一般に英文法やリーディングは苦手だけど会話ができないというのは大ウソであるという印象を持っています。というのも、英語の感覚のまま英語を読めてる人が実際にどれだけいるか?と考えると、かなり少ない…逆に言うとそういう英語の感覚のまま読める方、書ける方は話をさせても上手い、というのが私の観察に基づいた印象です。
昔、英文を書くのに日本語でまず原稿を書いて、それからそれを英語に訳する人が大学時代にけっこういてビックリしたことがありますが、文法ができると言えばTOEICの4択問題で満点がとれるとか、その程度の理解しかない方はけっこう多いのではないでしょうか?自分自身、かつて英語の論文を読み、そのサマリーと考察をまとめる、という作業を一年間大学時代に行ったことがあるのですが、それくらい大量に英語に触れると自然に英語のロジックで日本語を一切介在せず読め、書くことができるようになりましたし、そこから会話能力も自然とついて行きました。もちろん、自然に生活の中で身に付けた会話ではなかったのでネイティブとの会話や、DVDなどを観て不自然な表現をは是正する必要はありましたが…。朝日新聞はメディアの体質上、二項対立型の論調が多く、その方が一般のリーダーには読んでいて面白いのかもしれませんが、本質的に今回の議論は英語教育という観点から見れば同じベクトルの話ではないかなとも感じました。もちろん、先生のご指摘のとおり、英文解釈に論理が飛躍するのは??と私も感じました。
[返信]
このコメントを、やたら英文解釈が大事だよと説き、シンポジウムまで開く方々に読んでいただきたいと思いました。ありがとうございます。
- 匿名
- 2010年8月 7日 03:20
引用箇所にある文法能力、日向先生のいう英文法または旧来の英文法、大津先生のいう英文法、これらが意味するところは少しずつずれているような印象を持つのですがいかがでしょう。
完全な文は文法的でそれを省略した形は文法からは外れていると考えるのか、意味の通じる範囲つまりここまでは省略できるまたはくずせるというところまでを文法ととらえるのか、がそれぞれに違う気がします。
わかりにくい説明で申し訳ないですが、私は母語話者が省略したりくずしたりできると感覚的に理解している範囲が文法の拘束力が及ぶ範囲ととらえています。学習者はこの境界が見えないため便宜的に文法書の説明で理解するのだというのが私の理解です。
日向先生は母語話者の文法能力というものをどう説明しますか?
[返信]
母語話者か否かを問わない一方、話し言葉、書き言葉それぞれの領域で、文脈に即して意味が通じる固まり(センテンス、あるいはセンテンス未満の言葉の固まり、あるいは、複数の固まりでひとつの意味が出ているもの)を作れるか、つまり、相手に言いたいことをきちんと伝えられるかがわたしの理解する文法能力です。
本文で引用しているとおり、avoid confusion in the message (due to faulty pronunciation, grammar, or vocabulary)ができるかどうかで決まることがらという理解です。
- 匿名
- 2010年8月 6日 22:49
先生のおっしゃることはごもっとも。しかし子供たちは困るんです。高校入試、大学入試の英語があるので。先生の方法の延長線上に受験があるのなら何も問題はないのですが現状(昔から)ちがいますので。僕自身最初は東後勝明先生についていこうと思ったけれども、それは入試が阻んでしまうんです。
[返信]
たしかに受験英語は文法訳読法ないしは書き言葉の世界ですから、それはそのとおりですが、あるべき姿としては、口頭によるコミュニケーションにもっと目を向けないと国際化のための英語とは矛盾する方向に行ってしまうわけで、そのことはやはり強調し続ける必要を感じます。
- ある一市民
- 2010年8月 6日 15:47
私もこの記事を読みました。
>いきなり、「そこで必要になってくるのが英文法、英文解釈、英作文の「3点セット」です。せっかく日本語という母語があるのだから、英語の文法や構文といった仕組み、解釈の仕方、英語への訳し方について、日本語で教えた方が生徒には伝わるし、効率もいい」と続きます。
日向先生がおっしゃる通り、この論理の飛躍は全く理解できません。
一般読者の8割は、松本先生の考え方を支持するのではないでしょうか。大津先生のお考えは、古典的で実用性がない、と思うでしょう。朝日新聞の意図は、松本先生がおっしゃる、「これからはコミュニケーション英語が必要である」という世論を作り上げることにあるのではないか、と考える次第です。一応は「対決」の構図にはなっていますが。
>英文法、英文解釈、英作文ばかり熱心にやっていると、プレゼンの質疑応答でまともな質問ひとつできず恥を書いたり、あるいは、せっかく習った英語が通常のコミュニケーションでは使いにくい生硬な書き言葉で、相手に違和感を与えたりすることにもなるので、やはり公教育ではやさしく、実用的な話し言葉を中心に学び、大学にはいってから、かっちりしたフォーマルな英語を上乗せしたらいいというのがわたしの考えです。
このご意見に賛同いたします。学会発表で、Hereinafter とか平気で使い、原稿棒読みで何を伝えたいのかさっぱりわからない、という日本人がたくさんいますからね。
[返信]
おっしゃるとおり、世論を誘導しようという意図があり、大津先生はダシに使われている感じですね。そもそもあの朝日の記事は、各人の前提や現状認識がわからないわけで、恣意的に、structure派とuse派に言いたいことだけを言わせて、対立があることだけを浮き彫りにしている点、いったい何のための記事なのかという印象を受けます。
- めいけんとパパ
- 2010年8月 5日 20:44
この場合、大津氏がいう英作文は作文というよりもアウトプットする作業の意味合いが強いのではないでしょうか?まとまった文章を書く訓練とはまた違うように思えます。
書かせることの意味も声に出させることにくらべて後で見直すことが容易であるため…かもしれません。もしそうであれば大津氏のとなえる「ことばへの気づき」へもつながります。書かれた言葉≠書き言葉ですし。
記事から読み取れることには限りがあるので半分は想像ですが。
[返信]
エッセーを書くにしろ、練習のための短文にしろ、書き言葉である以上、センテンス単位で処理されるわけで、それが問題だと指摘したつもりです。
つまり書く以上は通常、フルセンテンス単位となりますが、話す際は、書き言葉で言うセンテンス未満のものが多用されるわけで、その落差を見落としたまま、「英語の勉強の基本はやはりライティングですよ」と強調する人が多すぎると感じます。話し言葉と書き言葉の違いにすら目が行かない人々が語学を論じていいのというのが正直な気持です。
- 匿名
- 2010年8月 5日 19:43

> 英文法、英文解釈、英作文ばかりに力を入れると、常にセンテンス単位で英語を捉えるようになってしまいます。
私が数十年前にやった「伊藤和夫」の英文解釈では、センテンスレベルではなく、短いパラグラフがほとんどだった記憶がありますが...
[返信]
そうでしたか。本文を書いたときに念頭にあった、「新々英文解釈研究」はWhat the horns are to the buffalo, what the paw is to the tiger, what the sting is to the bee, what beauty, according to the old Greek song, is to the woman, deceit is to the Bengalee.のたぐいがいくつもいくつもある本です。